5月の気候には季節の強さを感じてそれなりに何かと抱えてきたか。コイノボリはわが家の庭にあった、竿を立てて屋根より高く差し出たさきにコイは括り付けられて翩翻と風に揺れていた。
幼稚園のころか、それきり、旗竿はしまって、コイも折りたたまれたまま押し入れに。狭い庭に不釣り合いだったのだろうが、そのころが何かというと父親の事業に羽振りがあったのだろう。
何しろ野球場の外野スタンドの下で射出成型機を動かしていたのだから、それもアメリカ輸入したのが父親で、2台だか3台だかの一つを据えていた。それからはプラスティックという産業の動向を受けて箱モノの、例えばラジオだとか洗濯機の胴体だとか、電機メーカーの下請けに白物を扱う苦心があった。
コイノボリの空は象徴的だったろう。その後に大手メーカーの積*プラスティック、その派生に昭*プラスティックとかかわるなかで、下請け産業のあおりを食らうことになる。工場は大阪へ越していったから、その激動には松下産業の名が出てきた。
小学生時代にしばらくはナショナルは禁句になりその名の家庭用品メーカー品はことごとく家庭内から消えて、シャープかサンヨーかになってしまった。朝のラジオ放送から、あかぁるーいナショナルなどコマーシャルソングが聞こえてこようものならたちまちにスイッチが切られてしまう。
よほど、納入品の返品でいじめられてしまったのだろう、それからも、いくつもの取引で成型品に産出して汚れやほこりが混じらないようなものを得意とした。しかしわたしの小学校時代の思いと中学校に上がってからの家計を取り巻く事情には変化があった。父親は社名を変えて2度目の時は高校時代になっていたというのはその思いにつらなる。
石油化学製品でも出光石油にいてその産業の未来を手ほどきしたのが伯父で熱可塑性合成樹脂を扱うことを教えた。なにをすることも困難な時代の幕開けに、大陸から帰ってきた戦後引き上げ家族であったので、貿易商から転じてそれこそ裸一貫でたたき上げて父親の事業はそのはしりにいたわけである。
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