2025/09/30

令和七年九月三十日 火曜

 




快晴

2017-10-01 | 思い遥かに

長月は雨の日を繰り返し、晴れ間もそこそこのような月だった。そして、神無月に、いま、あけて、まっさおな眩しさである。9月晦日の雲が張り出した日だっただけに、午後からの雲行きでこんなにも晴れて、こういう変化を自然から受けるこの地域の風情は格別なことである。週末、ドライブをして天龍村に脚を伸ばした。

>2006.10.01 

神無月、月立ち  10月になって、秋らしくなった。雨が降って冷たいと思うようになった。神無月、暦から―――陰暦10月は、日本中の神様が出雲大社に集まり、出雲以外の神社には神様がいなくなることから、神無月、かんなづき、の名がついたといわれる。その反対に、出雲では神在月、かみありづき、となる。陰暦では神無月はもう冬の始まりである。


秋晴れ、紅葉前線、錦秋、秋冷え、いわし雲、運動会、初冠雪、初霜、雁渡し

2025/09/29

引っ越しブログデータ 令和七年九月二十九日 月曜

 長月も晦日になる、長いのは夜長だったのだが、猛暑とよぶ天候の長い日々だった。

季節に秋分を過ぎれば、甘露、霜降、立冬と節気が15日ごと、廻りくる。露、霜の気候か。

ブログ引っ越しはかなり困難もあったりして2020年以降はデータをつくるが、それ以前はと、15年くらいの日数が手つかずの状態だったから、あきらめかけて、電子の屑となると・・・

ところが日本ブログ村にデータ移動先を可能にしているというのでそちらに移してみたらできた。もう、きょうあすの期限であるから、時間配分して作業をすることに集中していた。


2025/09/28

ブログ引っ越しの顛末 令和七年九月二十八日 日曜

 あるポータルでブログ記事がなくなる、つまりサービスの終わりとなる、その期限が明後日までと迫った。以降は投稿、編集機能ができなくなる。

わたしには、2003年からのブログに1万数千件と、インポートに12000と5900の件数が表示される、それが22年にわたる足跡である。

11月に完全閉鎖するというので、引っ越しをしてきた。ここにブログの大騒動である。いままでもSPのブログ停止と指折り数えるほどサイトに消えていったものがある。

ここにまたそれを引き継ごうというのは考えないことであった。にもかかわらず、ぎりぎりになってあるポータルが便利だとわかった。

いまの22年も続いたサイトはここなら消滅しないか、電子の屑となってどこかに潜み、さまようのだけれど、情報は消滅することがない、復元可能なものと考えてよいのだが、人間の記憶とは違うようでもある。

2025/09/27

令和七年九月二十七日 土曜

 9月がやってきた、という季節感の一方で、もう月が替わるという、これはさみしい。

政治には金がかかる、金を集めると政治資金となって当たり前にやっていたことがそうはいかなくなった。

政治家は嘘をつく、平気でないことをあるかのように言う、時局はその弊害を起こして表舞台から去ることになる。

そして次にやってくるのは国家を支えとするわがための政治が少し方向性を持つようになるか、右にぶれていく。

世界の情勢にも専制国家とわが国ファーストと覇を競い合うような複雑なことになってきた。複雑なゆえんは、どちらも似たり寄ったりだから。ではどうなればよいのか。

とにかく要領だけの国家運営となると見えない力で、それは資本のこと、物価高騰に見え隠れする金融政策の時代であるから、口先だけでないように、しかととらえ考えすすめていくしかあるまいに。

2025/09/26

令和七年九月二十六日 金曜

 涼しくなる。それで気温は32℃まであがったようだから、体感的にはまた暑い日がもどる。しかし寒暖差がでてくれば、季節は遷る。夕方に風が吹き、もしや秋風のよそおいかと思えども、台風のことどもあって野分を思い出させる。体を動かす、伸びをする姿勢がつづかない。それはすべての衰えにつながるようだから、前かがみになりゆく日もすぐであり、そのあとに下半身のこわばりが起こって、14年前だったか、あの突発の状況にぞっとする。

2025/09/25

令和七年九月二十五日 木曜日

 最低気温が19℃とあってとても信じられないような、寒いぞと、身構える。

と、思いきや、東京のニュースであった。

ここらは朝は22℃となって、一日中、曇りの模様で小雨もある。

そいれでも最高気温は30℃にはならない。


ドジャースの負け方を見ていて、そうか、監督はポストシーズンをにらんで選手起用をしている、地区優勝は時間の問題だとしたら、リリーフ陣の打たれ方はなんとしても実戦を経て立て直しができるかどうかであって、ここ2戦は負け方がひどいので胸糞悪くてしようがなかったのが、そう思いなおしたら、見ているポイントが変わってきた。それにしても、今日もまたか、またかと佐々木の奮闘を見てカーショウの意地のようなのを見て、最後にトライネンがやっとこさのテンポで踏ん張った、思いやられるなぁ。明朝は日本時間で朝の4時半だぞよ。

2025/09/24

台風の影響で涼しくなる 令和七年九月二十四日 水曜

 あとに、およそ20年前の記事を引用する。句点を行末で打っていないスタイルは、あっちのブログのままに、これは決めた時間割のごたごたを、めったと書き込まないことをーー

2000年から2005年の間に、おこったことがいくつかある。記憶の彼方に押しやられそうなこと、であれば、それきり忘れてしまうものだろうが、10年前の記憶から、さらには、思い出すことが、やはり、そうだったのである。そうして、ここに書かれたことが、すべての始まりでもあるような、個人的思いである。

>2006年04月12日23:53

桜が雨に打たれてあらわれたように花びらを散らし葉桜も見えて桜並木の街路樹がうつくしい 

曇り空のなか舞い落ちるひとひらはまだ咲き誇ったわけではなかろうに 

強風と吹きつける雨に耐えた桜はわずかな日の光に映えてわずかな命をまっとうする 

あと2日は天気がもつかもしれない 


うつ病、ストレス障害にも似て時間をとられることはなはだしい 

そばにいると、ほとんど病気状態だ 

これを読む方には関係の向きもあり、はばかれることもあり、それはそれで申し訳ないが、そうだろうが、こうも学生諸君諸姉がはめられていくと、これまでがそうであったように、自然体でいくか、ない袖は触れない程度にするか、まったくそ知らぬ顔でいくか 

しかし教務になってしまったのだからそうも行かない、やりとりを分析していくのが面倒な、不機嫌なやからをなだめすかさなくてはならない 

そうでなくては解決しない 


考え事だけで解決がつかない、いや、解決策は簡単なことなので、すでにみんながしてきたであろうように、はまるだけはまっておくしかないだろうに 

何が起こったか 

2年連続のバッテイングだとか言って、それは実は指導不足と自らの時間の組みかたのミステーク、さらに3年目もバッティングでかわいそうだと騒ぎ立てて、その時間割は3年も連続して何を組んできたものか、約束をしたなど、自分がしでかしたことを矛先を変えて、とどのつまりは規則違反を持ち出す、ごり押しと言うやりかただ 

それはなりませんよと言うのもしんどいが、その先の解決がこれまた大変なことになる 

約束をしたからとひとりのための時間移動は16人のはた迷惑が生じていることを考慮しないし、そのうちの4人は、示された時間割によって学習計画を変更しなければならないということが、火曜日と木曜日におこる 


16人が登録を済ませた、その約束はどうなるのか、時間表を発表して、それを訂正しなければならない結果は単純な事実ではない 

事情を知らされない人たちには何が起こっているかわからないから、したがわなければ免許はえられない、ひとりのわがままのために 

ああ、ほんとに5年もスタッフとしてまともに付き合ってきたのだろうかと自問自答してしまう 

コースの防御策はやっと出来上がったが、宙に浮いた学生をこちらでひとりかぶるのは、もともとできない相談だ 

 引用したのは、もう時効だろうに、これから2008年にソード―になる。


https://www.youtube.com/watch?v=QLU_TBSuqOc  1359回 自民党総裁候補の外国人政策とエネルギー政策を採点! 髙橋洋一チャンネル 回視聴 2025/09/24  


2025/09/23

秋分の日 令和七年九月二十三日 火曜

 お彼岸の中日。宮中祭祀に秋季皇霊祭、秋季神殿祭の日。皇族の先祖祭りを、一般に及ぼすのは、墓参りを仕切る仏事に彼岸此岸の発想が唱えられたからだろうか、先祖供養となる。暑さ寒さも彼岸までとよく言いましたね!ご先祖を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日。



2018年記事を引用する。

連休になる。秋分の日。季節を分けるとは、春と秋だけになる。そうであるかと、節分があった。そして夏至、冬至の日時空を分ける人間の営みである。日のながさを測って、その影である時間とそうでない時間が同じになることを見つけ出す、そういうことであったか。あるいは日の傾きを捉えたか。それは途方もない作業であるから、気象と天文は人智の業、術となる。

燕子崎、崎は正しくは几きが旁になる。揚子江をまた、見にでかけた。北から、南から、さらになかへと、悠然とした時間がある。大きなタンカーが行き交う。下れば蘇州、上海、上れば重慶、成都を結ぶ。南京市民おの浄水場はきのうでかけて、生命の水に、運搬船はまさに古くからの重要航路にある。紅葉かと思ったら、紅風残照は、紫紅岩に映える夕陽であった。

燕子磯という地名だそうだが、そこに来て揮毫したのが乾隆帝であると、御碑亭がそびえる。酒樽石によって岸壁を感じると、まさに切り立っている。

達磨古洞に登った。伝承が論争だそうである。達磨は南京に来たのか。どうもいかがわしいらしい。揚子江を渡って、何処へやらというところで、葺をつかって、武術に長けている達磨さんが渡河をした、となるような、これでは足跡が辿れない。小高い丘に登って祠にたどり着く。そこから下りて、ひょいと揚子江が見える。木立に挟まれて遠景は一幅の絵となる。

南京滞在7日    20180924  日本語教育40年    2018-09-24

聞けば日本語クラブだという。それは、活動はどんな風にして、その目的はと問えば、初心者の日本語学習にボランティアをしているそうである。初級の日本語を話して教える、と聞くと、何かを思い出す。案内をしてくれた学生が、会話巧みに、いろいろ話すので、日本語の先生はだれかと聞いてみたら、日本語を学ぶ仲間だという。そうであったか、日本語のクラブで覚えている。すばらしいことだ!

日本語学習の人気はどうか。増える、減るという動向が話題となるのが常であるが、いま、また増えているとか。良き教え手がない、増えるのに教師が不足のこと、これはいつも繰り返して来ている。外国語を習得して身を立てる時代が変わりつつあるのか。経済の拠って来るところ、その関係は一通りのことがあった。そしてつぎの時代の需要は交流の定着であるから、必要が異なる。どうなっていくか。

滞在7日になる。日のたつのは早いものである。講座をして、あとは観光をした。連休になる合間に飛んできて帰る。目的は果たしたか、お役に立ちたいとやってきて、1年になる準備で、再会をした4年ぶりのこと、有り難い。南京の街になれたころ、帰国する。すると日をおかずして授業が始まる。

懐かしい、思い出の南京である。江蘇省の発展は激しい変化がありそうだから、揚子江にかかる眼橋には何が計画されているだろうと思う。断片のうちにある中国との関わりには日本語教育がある。1978年まで遡って、2018年と、ああもう40年を迎える。研究留学生に日本語指導をして、そのスタートに、進修生を迎えるプログラムを計画、実行してから、研究者、さらに大学院生の日本語指導を続けて、博士学生の指導を行った。長い道のりであった。

2018-09-24

予定を終えて帰り仕度となる。本と冊子を置いて、開いた部分にみやげ物が入った。重量は変わらないかなと、軽くなるのを期待してそうもならなかった。こちらで買ったのは爪切りと歯垢楊枝と傘、スーパーで傘を買って一度きり、開いてさすほどのことなくすぎた。ずっと雨もよいで買った傘であるから、安心のためのようなものだったか。

スマホの便利さが際立つ。日常の通信から、情報の摂取、連絡はケータイ電話をしのぎ、なくてはならない。支払いにQRコードを使ってする、キャッシュレスは当たり前となって、予約から勘定までの流れは数字だけで動く。その様子に驚いたり感心したりする時代ではなくなった。その浸透は便利だからである。通信、通報には関心が高い。

火曜日の飛行機で上海入りして、出迎えを受けた。そこで空港から駅までの間に、迎えにきた学生は高速鉄道を予約したと、こともなげに言うと、スマホを示して14時の電車を取ったと。駅について予約窓口にパスポートが必要だというところで駅外れの建物で買った。なんとも手際よい。感謝して乗り込んだ。駅構内は変わらない待合風景だった。

2、3日は休憩と準備をする。そのときにスマホを地面に落として蹴飛ばした。なんとも言えない、スマホを手にして落としたりしてガラスを割ったことがない、なにごとか。1日め、昼のこと、そこで修理に行くことになって、よく知る学生に案内をしてもらった。白いケースの入荷で翌日になった。ガラスは取り替え作業に時間がかからないということで、昼3時に出かけて4時に出来上がった。

4日は午後から講座を勤めた。スーツを着込んだので、汗かきながら、80分話した。政治になると関係が分かりにくくなる。言葉の現象として、ネット検索できる議論を紹介した。誰でもできる、誰にもわかる、という触れ込みなのだが、ネット社会の常で、それを行う手順を違えると結果が異なって来るし、その判断が求められることになる。難しい話だったが、資料で考える材料にはなる。

5、6日は揚子江を観光した。

飛行機は午後6時10分、上海浦東空港発、中部国際セントレア、午後9時20分着、南京駅は12時の高速鉄道で2時間ほど上海駅に着く。お世話になりました。

無事に帰り着いた。東方航空は快適だった。なんでも昔と比較してばかりでは、たまらないことだろうけれど、中華航空が民航に取って代わり東方航空と南方航空と草分けの時代に乗って、その頃のことからすれば、雲泥の差である。日本の航空会社とサービスに遜色がない。

2018-09-25

着いたのは9時20分、名鉄特急に、10時過ぎに乗って、45分に名古屋着。

2025/09/22

涼しくなった 令和七年九月二十二日 月曜

 涼しくなった、といえるかな。明け方の気温が20℃を下回れば日中の暑さと比べて涼しいのは一気に寒いくらいかもしれない。週1の授業に出かけて疲れはしたが、回復とその疲労度には普通感がある。普通感ってなになに、休めばもう元気になると思えること・・・

予後か、寛解か、治癒となるのか、手術後3か月と、慣れてきた。運動不足の影響にも改善の兆しがある。とくに何もしないが、歩けばそれがわかる。老いを受け入れるなと、クリントイーストウッドが運び屋のワンシーン、エンドロールになるところ、そこで繰り返し歌っていた。

>「予後(よご)」は病気や怪我の後の「将来の見通し」を指すのに対し、「寛解(かんかい)」は、病気の症状が一時的に軽くなったり、無くなったりしている状態を指す医学用語です   検索語にAIによる概要回答



1週間すれば母親の誕生日、生前の、元気なときを思い出せなくなってきた。だからと言うのでもないが、漂流郵便局に書いたものをとりだしてきたら、日付は。

2014/05/11 11:11:11

母上様

 母上は無言で諭してくださった、それから、自己に・・・

 それまでどおりにかわらぬ思いを胸に秘めてきた、姉の家に

 自宅介護をしていた、それはわたしにとって急な知らせだった。


 あの時にはすでに目の動きだけっだった母上には、

 気分よくしていて日和に望まれるままに湯あみをしたと

 思いもよらぬ軽い肺炎を起こしたと、涙に泣き暮れていた。


 聞いて300キロ余の道を駆けつけてみると、そこには

 救急車で救急病院を3件ほど回されたあとの

 須磨の病院の一室で、そこは集中治療室だった。


 あのときはわたしをみすえていらっしゃった、

 その眼はえらくなりなさいと語ったときと同じだった。

 お前のことはそうすることでしか報われないと。


 治療を受けるべく、いらっしゃった。

 そのベッドのわきに佇んだわたしだった。

 かわらず意識があったので、手を握った。


 それからそこに、どれくらい、3か月に

 月日が流れた、通い続ける姉に寄り添う兄に、

 母上はこたえなくなっていた、ながく流動食に


 その呼吸器をはずす、はずさないの家族会議で

 病室で大げんかをしてしまったわたしだった。

 涙がとめどもなく流れそうになって、くやしくて


 父上の制止を振り切って須磨の神社に走り出して

 気が付いたら海に向かって、ほえるように声をあげ

 ――神も仏もあるものなら母をかえせ!


 そう叫んでしばらく泣いた。

 いつのことだったか、母上がいなくなって

 その日のことをおぼえて、なくなられた、そのこと


 いまだにわたしには母上の目がある

 口も手も足も動けなくなってしまった病に

 なすすべなく、3年のリハビリを希いながら


 もう幾年になる、いまはどこでどうしていらっしゃる

 母上に届けようと思ったカーネーションはこれまでに

 1本、2本、3本、4本、5本と届かぬままに22本にも

 

 きょう新聞でALSなどの難病患者の意思表示に

 アプリが開発されてアイパッドにダウンロードできる、

 というニュースがあって、おもわず、ふいにも


 いいものができたと母上にむかってつぶやいた。

2025/09/21

思い出すことども 令和七年九月二十一日 日曜

 

9月、いまは昔、14年前だった―――

2013-09-18

平常心是道は、へいじょうしん と読めば、ふだんの平穏な心となるだろう。それを仏教用語として、びょうじょうしん ビャウジャウと訓じて、日常ふつうの心、ふだんの気持、あたりまえの生き方を言う。無門関‐一九「南泉、因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道」と見える。


いわばこの語にすくわれることになるのは、しばらくしてからであるが、入院中もずっとこれを唱えていた。生と死の境であればこの語は役立たない。そのままに生きているか、あるいは死ぬからである。この境地を体得することは日常そのままである。死に隣り合うよりは生にあって病労苦を感じるときである。


肺がいくつか部屋がありその18分の3を切除すると言われて、肺活量を測って人並みに余裕がある機能であるからその分には日常活動に影響しないと言われて、言われるがままになった。結果として機能回復は進んでその処置はその事実を受け容れることになる。そのように告げられたときは、インフォームドコンセントのありようで、右3分の1であると思い至ったときはどうなるかと思っていた。そのときは、それはまだ平常心の何たるものではない。


目覚めて背中が突っ張って仕方がなかった。全身麻酔が効いていて、不自由なだけだった。縛りつけられているのではないが、とにかく体が動かせないことが痛いと思わせる。動けばどうなるか、神経はそのようには働いていない。押さえつけるように軽いタオルをかけているだけでずしりとベッドに沈み込むかの体の漢字ようである。背中が痛いので首を枕に突っ張って支えにもならないが痛み止めの管が入っているところをずれないように緊張していた。


看護士がベッドに1枚、敷布を足すだの、身体を拭くだの、もう少し姿勢を寝やすくするだの、いろいろ言ってくれるのはいいが、麻酔冷めやらぬ体は一向に動こうとしない。首のツッパリを触ってみて、背が痛くならぬようにする思いと裏腹に、肩と首の付け根が腫れていると記録されたらしく、とっかわりひっかわり確認されたりした。


このときは、まだ平常心などと言うことはいらない、身体状態だった。

その日のうちに集中治療室から一般病室へ移された。


入院当日には、どうだったろう。



2011年9月12日

 名古屋第1赤十字病院に入院した。

 呼吸器外科病棟9階だ。

 朝は10時にやってきて、手続きをしていまは、ひと段落する。

 シャワーを浴びるのは今日を限りで、後は7日ほど、我慢をすることになる

 いま3時前でシャワーの予約をしてあるので、これから浴びてくると・・・

 パジャマに着かえて、いざ、ベッド生活が始まる。

 何やら同意署にたくさんのサインをしている。

   肺癌手術同意書

   深部静脈血栓・肺塞栓症の予防についての説明同意書

   抗生物質によるアナフェラキシーンショック防止のための同意書

   輸血・特定生物由来製品の使用に関する説明及び同意書


 ことのおこりは、どういうことか。

 先ほども看護師さんが、一通りのこととして尋ねた。

 多発性関節炎はいつからですかと、それは5月28日に専門医に診てもらったことを、ちょうど薬の処方があるので、話して、今年のことですかと、そうですと。

 それで、定期健康診断にかかってレントゲンがひっかかって精密検診でこちらに来たことを言う。呼吸器内科を探して診てもらって、こうなっているわけで、いまだにどうなったか。わかってから40日余りだ。

 8月1日に来院、医師にかかって、2日にもPET検査を受けて、それから15日にMRI検査で、その結果が17日にわかった。検査結果も疑いが出て、内科的な処置では済まないので、外科を紹介されて、22日に説明を受けた。もうその間では、外科による処置の方向で術中診断ということになって、その時に入院の日取りが決まった。9月2日に外科部長による説明で、これもまたその流れであった。診断がつかないままの入院だ。


 7月1日の定期健康診断から、そのフィルムは28日に精密検診が必要だとの判定であったから、すでに写真撮影の時から2カ月が経過した。

 順調にこともなければ、23日にここを出ることになる。

抜糸はその2週間先にあって、そこで回復が決まる。


麻酔医がきて、次の説明を受けて、サインをする。


  全身麻酔・硬膜外科麻酔についての説明と同意書

若い女医で、名前をひらがなで、ももこ、と書いてあった。



2年前のその日、ひとつの命をおくる。病室は相部屋であったので、カーテンで仕切られた窓側のコーナーに、ベッドにしばりつくように寝ていた。食事はさだめられたとおりに摂って日に日に体力の回復を見る。動けないのだけは苦労した。とにかく首をつっぱって背中を浮かすしかない。全身突っ張って痛いのだから、そうでない、そうならない姿勢を探すことになる。電動の背もたれを上げ下げするのが一大事のことであった。その生活にカーテンの向こうの、もう一つの窓側のコーナーに元気な方がいたのだが・・・


テレビをご覧になる、そのためにはコインがいる、そのコインを請求してやり取りをし、ベッドから落としてナースコール、トイレに自力で行こうとしてベッドから落ちる、介護をしようとするとことわる、それで便器を持ち込んでするのだがうまくできたのかどうか、見回りが来てたしかめて清掃となる、それで世間話をする、なんともにぎやかい、だが、どうもようすがおかしい、だんだん声に張りがなくなる、ように思えたら、寝る息のままにお休みだったりして、それをくりかえして、生とのたたかいだった、そう聞こえてくる。


容態が急変したか、深夜の騒ぎにベッドをナースセンターに移したらしい、明けて戻ってきて事なきを思ったが、続々と、3人4人と家族が出入りする、それでまた付き添いで夜を過ごす、小康を得ていたかのような動きであった、どうもだいぶ具合が悪いらしい、ここの病室に来る人は大体が同じ疾患である、退院する前には同じ説明を2度聞いたような気がする、それは入院初日に聞いた同意書である、そうするとどうか、またの深夜にうめき声があり、人を呼ぶようであった、付き添い者はベッドを離れていた、ナースコールはしなかたのか。


あわただしく人の出入りがあって、急診に機械を持ち込んでもいたようであるが、次に静まり返った、家族がいただろうにどこへいっていたのか、しばらくして、天井を見上げながら息をひそめる気配を感じながら、忍び泣きを聞いた、あけてまた、つぎつぎと出入りがあって、ベッドの周りに椅子を据えて声をひそめていた、どうもなくなられたらしい、時を経て、出入りが激しくなり、ベッドは運び出された、あれほどにぎやかな、元気なようすであったのに、私はといえば、動けない身体を何とか持ち上げようと腐心する毎日だった。


あのとき呼んでいた、たしかに、家族がいたはずだから、近くならきこえていただろう、ナースコールを押せば、押すか押さないかで大声でやり取りをしていたから、異変だとして自分が押していればどうなったか、と、ふと気づいたときに、すべてのようすがなにもわからぬままの、結果でいえばそうであるという、隣り合うベッドの思いがよぎってしまった、カーテン閉じきったままの空間がすっと広がってそして、わたしにおしつけてきた、ひとごとではない、ひとごとどころではない、わが命だという思いとともに、だんだんとわかってきたのは、それもいつだったか。


こういうときにはどうするのだろうと、何かわかるか、告げられるか、だれもがなにごともすぎゆくままに、なにもわからないままに語ることはなかった、いつものように早起きで朝焼けをじっと見続けていた、それから誰にもこのできごとを話すことはなかった

2025/09/20

令和七年九月二十日 土曜

 秋が来る、待ち遠しかったところ、夏バテは気温の変化に対応する身体の機能が乱れてしまう、とくにこの気圧変化と日に一気に10℃にもなるという、日中の30℃超が20℃前後に日替わりでなるとなると、この急な変化と体感温度がそれに伴うことが、かえって寒くなるような気がして自律神経が順応しない、すると、だるい、おもい、はては、ぼ-とすると、眠くなるという症状、まさにそうなると、寝るることになる、身も心も。爆睡してしまうと、どうなる・・・


2013-09-09 

秋の気配が忍び寄る。

あれだけ暑い夏が一気に変わるのか。

残暑がまた巡りくるか。

高気圧の張り出した太平洋の気圧配置が動けば、季節も移るだろう。

病院の検診を受けにきて、画像生理と検体検査とを、いつものように済ませて待っている。

先月末、検査をしているのでそれも合わせて診察である。

むなし、むなし、と、心得つつ、2時間を待つ。

医師に呼ばれて診察室へ。

いつもと変わらぬ検査結果の所見だ。

脳のスキャン写真に異常なし、脳梗塞などのことも心配ない。血液検査は正常値、レントゲンによる写真も変わりなし。次は12月に、決めて。

ちょうど2年ですね・・・熱が出たりしませんか、食欲はありますか、いつもと変わりがないですか、など。


感慨を込めて2年のフォローを無事に来たことを担当の医師自ら、祝うかのようだった。

2013-09-10

これは寛解か、あるいは予後か。医学的には寛解、Remission という語を用いるのは、これは永続的であるか一時的であるかを問わず、病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態を指すと解説がある。国立国語研究所「病院の言葉」委員会 『病院の言葉を分かりやすく:工夫の提案』 勁草書房、2009年、p.p.12-13。一般的な意味で完治せずとも、臨床的に問題ない程度にまで状態がよくなる、あるいはその状態が続けば寛解したと見なすようだ。また、予後 prognosis、 Genesung とは、手術後の患者の状態や、病気・創傷の将来的な状態、特にそれらの状態に関する見込み、を意味する医学用語であると見える。こちらの方が医師の使い方によって、余命となるようである。

寛解と予後と、どちらがどうかは、わからないけれど、2年を迎えようとしている。あと3年のケアがあるようだ。3か月ごとだ。先日、9日に、Magnetic Resonance Imaging 磁気共鳴画像 の検査を受けて、頭部に異常は見られない。その検査で得意分野の脳梗塞なども、もちろん、なかった。この2年に2回受診したようだ。いずれも変わらない。2011年の9月2日に、手術の話を聞いてきた 9時からの診察は外科部長が出て 確認書にサインをして 11時から説明を聞いた と記している。

そのあとには、終わったのは昼過ぎで入院手続きまで 長いこと時間がかかるのは仕方ないか ずいぶんと疲れることだ これで12日に入院13日に手術 退院の予定は早ければ20日から23日ぐらいのいずれかで それから2週間の様子見があることになる  とだけ書いている。


20130912 むなしき

生きていくには欲がいると気づいた。手術を受けて回復を図るときの思いだ。これは人生で2度目だから、よくよく救われない、いや二度も生き返った思いか。18のときと47年を経てのいま、いずれも、15から50年を数えることになる。体を慣らしてふと、気づくのである。欲という字義は、字通によれば、声符は谷、よう、谷に容よう、浴よく、裕ゆう の声があり、容は神容、浴・欲はその神容に接する法をいう、と解説し、これまで知っていた、谷を空虚、欠けん は口を開いて欲する意であるとするが、そのような造字の法はない、と説明している。明解だ。彷彿として神容のあらわれる意、その神容を拝するを願うを欲、その神容に接するを裕という、と解説する。この字義を知って、またそうであったかと思うことしきりだ。なんとなれば、白川静漢字学で、欲は、神につかえる態度をいう語である、人の欲望には慾という、とあるからである。

どんな欲か。それは前に進もうという気持ちのあらわれだ。そのために歩みを進めようとする前の準備があるわけだ。そのときに祈る自分がいる。47年前は、大地にぬくもりを感じ、風の爽やかさに、身をすくめて願うのであった。2年前のリハビリもそうして始まった。集中治療室から出てきて、動けなくなった体を横たえながら、どう動こうかと思いを凝らしていた。身体から管が3本も出ているので、動くに動きようがなかった。電動ベッドの背もたれにするまでの痛みは、そうしてもしなくても、難渋だった。苦渋だった。肺から一本、尿のために、また痛み止めの点滴と、1週間を過ごしたのは、どうしていたろうかと思い出しても・・・


2年前のこの日だった。それからやりなおしたこと、体調管理だ。そうもうのは退院してからのことで、ま、ゆめの中で事なきを得て、それからの闘いは生きる意欲を持つこと、前に進める、ひとつを歩むことだった。こうしていられる人間の体の不思議を思う。生きている実感は2週間後に思っている。この日を記憶して書きとどめたものがある。平常心をいうのであるが、へいじょうしん、ではなくて、びょうじょうしん、というそうで、びょうじょう、とは、これいかに と、日本での禅の語を知る。平常心是道 は、中国の研究留学で知り得た。それで、平常心は、へいじょうしん と思い込んでいた。



次は、かきとどめたものだ。



2011年9月13日


 よく眠った。いつもと変わらない。昨夜は満月だった。うつくしい十五夜を、ここ、9階の休憩室から眺めて、消灯は9時で、8時30分ごろに部屋に戻って寝た。

 1時半と4時とに目覚めたが、そのまま、明け方5時半まで。起床は6時だ。

 関節炎の薬は、ステロイド錠は飲み続けることになった。抗炎剤はここでの処方薬になる。

 9時から手術だ。8時50分にベッドを出る。

 3時間から5時間ということなので昼過ぎに終わる予定だ。

 なにもかも、入院も初めてで、しばらく耐えてくる。


 術後のことは、どうなるか、気がつくと集中治療室なのだろう。

 難しい手術ですかと、3週間ほど前の診察で尋ねて、そういうことを聞く自分がおかしかった。難しくないものはないからだが、担当医は、普通ですね、と答えた。

 ずっと避けられないことになったと思ってきたから、あれこれ考えるのをやめてきた。

 なるようになる、受け入れるべき定め、として、信じようとしてきた。

 家族がつらかろうにと思い続けて過ごしてきた。

 

 午前7時のニュースだ。

 経産相の人事が前官房長官になった。あの地震後に、福島原発の爆発事故により、ただちに健康に及ぼす影響はありませんと繰り返しアナウンスをしていたが、それがめぐりめぐって、事故収束の責任を担うことになった。


あと2時間で前後不覚の中、生還を祈る。


 病室から案内を受けて中央のエレベーターで降りた。まだ始まらないというので少し待たされる格好になって、天を仰いでここで、と、思っているとドアが開いてぐるりと麻酔医とアシスタントが待ち受けていた。促されるままに、ベッドに上がった。麻酔医は、説明の時よりさらに小柄に見えたが、こともなげに、命にも係わりそうな麻酔をする、口に棒をくわえてくださいと。 

 背中に管を入れて脊髄への麻酔だから説明のあったように、半ば横向きで背中を丸めた。それで注射をした後に、痛みがあるかないかときかれ、数えるようなことを言われて眠りに落ちた、のだろう、それから向きを直されて、担当医が始めることを耳元でささやいたが、そのまま、気づいた時には、同じような状態でいるつもりだった。3時間は経過していたのだが。 

 こともなく済んだのだろう、切ったものを見せるようなしぐさが見えた。それを家内が眺めていて、やはり、そうでしたと術中の診断がつげられ、きれいになりましたというようなことを聞いた。意識がふらりとする。ベッドを移すというので、抱えられて動いた、それは動かされたのだけれど、体からチューブが何本も出ている。3本らしいのだけれども、それがわかった。 

 いきつもどりつする意識のうちに、そのままに集中治療室になった。目覚めると、それはだんだんとはっきりしてくる周囲の様子に、看護師たちがまたベッドに移すようにしたような気がするのは敷物を背中にするためだった。遠くに時計を見て12時40分を過ぎた針をみとめた。背中、わき腹、そして下腹部にとチューブがある。 

 腕には点滴の管も加わっている。これで動けと言われても動けないよと痛みを感じるままに背を突っ張っていた。あれこれと身の回りを整えている看護師さんたちに、はっきりと違う人影で、家内と娘をみとめた。顔をくしゃくしゃにして、涙を抑えて、言葉にならない息をしている娘がチューブ人間のわたしを見ていた。 

 集中治療室はカーテンで仕切られる。家内から親類の見舞いがあって、術中にはずっと付き添っていたと告げられた。すべて無事であったのでかえってもらったよ、と。軽くうなずいて、声を出そうにも首から下が凝り固まっている。どうも切ったところの絆創膏とわき腹と背中がそれぞれに引っ張り合っているような感覚だった。 

 くくりつけれれているわけではないのだが、うごけない。 

 何度かまた、意識を失っている。 


体力があったので、術後は順調に回復をしていく。


2025/09/19

遷る勢力 令和七年九月十九日 金曜

 20℃を下回る最低気温だったとワイドショーは東京の朝を伝える。季節が少しずつ変化するとは日本の季節感が持つうつろいなのに、地球温暖化とやら、気象変動は荒れた天候になった秋雨前線のように、どういうふうに影響を及ぼすのだろう。暑い夏で果実に糖度が上がっていると、おいしいそうだから、それもまた季節感になるのか。新米の値段は高値をみせて、自然のようすは人為によって変わるのか。

洋上にあっちでひとつ、こっちでひとつと台風が発生し、さらにもうひとつと、トリプル台風が列島の遠くのまわりで秋を知らせる一雨ごととなるかしらん。


https://www.youtube.com/watch?v=8p0DxWOJ6Is  1356回 総裁選出馬表明の林芳正氏と小林鷹之氏 そして高市早苗氏がチャンネル出演??【訂正】00;03;25;22 財庁→税調 00;04;16;12 60%→50%  髙橋洋一チャンネル  視聴 2025/09/19


2025/09/18

予測される変化 令和七年九月十八日 木曜

 傷めた関節は大事にならず、痛みが引いた。中指で固定しているから人差し指を使えなくしてある。すぐにも処置をしたので1週間ほどの様子見となる。手の不自由感はないものの、みるからに巻き付けている湿布薬などで左手指の力が入らないのは、何事にも気づくことがある。暑さの記録も超えそうで酷暑の令和7年に起こった猛暑続きはダウンとなりそう。涼しいと感じる宵の風が望まれる。

総裁選の候補者がどういう方向を見て選挙活動をしているか、よくわかる。これで確かに政治の向きが変わると、変化が見える。5人もまた、ひところの与党には考えられない足並みの不ぞろい、庶民を見ているようなパフォーマンス、キシバを受け継ぐという本当か、財務省からどのようにホーキング、宰相だったオヤジとは真逆の風見鶏、そしてこわもてと役回りを演じてしまうトリ、などなど、政治をする人はいるのだろうか。


蒼穹の五十年

1975年昭和50年-2025年令和7年 1992年平成4年に言語文化コース設置 2000年平成12年に言語コミュニケーション学科開設 2010年平成22年に言語コミュニケーション学科  募集停止    2005年平成17年に異文化コミュニケーション専攻を言語コミュニケーション専攻に名称変更 (博士課程 異文化コミュニケーション専攻 2006年廃止)   2010年平成22年交流文化学に所属

思い出すことはたくさん、たくさん、たくさんあって、もう忘れようとして思い出さないように、五十年のうちに12学部14学科というから、2000年のころの3学部1短大で何を知っていてもほんのわずかなことだと思うし、だからこそ1号棟2Fを知っている方々がいればもはや希になってしまったし、それでもその25年はわたしに頑張っていたようである。教員40年余の半分を経験したところでもある。

よくある新任になると学生委員を受けるということになって、教育と研究の一方を実践するのはめぐりあわせに過ぎないのだけれど、よい機会だからそれまでのこともあって、研究環境を求めた新天地で存分に始めたことがあった。何をか、言う前に、学生をよく知る委員のはずが、代表委員もうひと方が、その方とはTV出演をしてアジアの経済を午後8時のBSで幾度も語っておられて、いまは転出した大学で副学長肩書きご活躍である、その学生のようすにご報告を共有したのは素晴らしいことであった。



2025/09/17

人差し指関節の付け根 令和七年九月十七日 水曜

 関節が痛い、リウマチの発症かなぁ、というわけでもなかった、一安心。左手人差し指の付け根を傷めて近くの整形外科にでかけて、久しぶりだねと受付で言われて、診察時にも元気で何よりと、ここでは関節炎を起こした10数年前が始まりで、ステロイド服用での劇的生還のような思いをしたし、悪性腫瘍の手術にかかわって全身に及んだ関節炎を経過を見てもらったり、リウマチ専門でもあるから、大病になる心配を持ちながら診ているというわけである。


https://www.youtube.com/watch?v=3wVQd3epbsw 1354回 食い逃げされた加藤勝信氏が小泉進次郎支持 え?なんで?  髙橋洋一チャンネル  回視聴  2025/09/17

2025/09/16

令和七年九月十六日 火曜

 52日を記録したとか。この夏の猛暑日のこと、35℃超はきょうも変わらずに、まだ暑い日が続きますよ。よくぞ、生き延びている、息も絶え絶えにはなっていないけれど伸びてしまって、イキノビルか。

古米古米と新米につなぐ米価の対策だったはずが、店頭に並ぶのは前の高騰騒ぎの値段と大差なく誰かが何処かで日本の庶民の財布を狙っているとしか思えない卸値の釣りあげよう。


https://www.youtube.com/watch?v=2KXvJSa90A4   1352回 GDP上方修正でもぬか喜びの可能性が  髙橋洋一チャンネル 130292 回視聴  2025/09/15

2025/09/15

高齢社会 令和七年九月十五日 月曜

 敬老の日、ここは秋らしい日和となった、が、依然として、気温の推移は高めである。老い人、としよりと、敬する対象であるためには、生き方の60年、70年がそれぞれにある。団塊の世代が後期高齢となって2年、3年、そうして2025年は、この世代の約800万人全員が75歳以上となり、長寿社会が始まっている。介護を受ける世代で、医療の受け方がどうなるか、5人にひとりがそうなりゆくか、2025年問題はさきが見えるか見えないか。

「医療」が47.8%から、25.8%まで減少していることも大きな変化だ。10年前の70代は「やけあと世代」と言われる方たちで、生活困窮者も多く大学進学者は少なかった。現代の70代は団塊の世代が多く含まれ、幼少期や少年期の生活環境、大人になってからの豊かさも大きく異なる。生きてきた積み重ねの違いにより、必要な消費や求める方向性が変化していると考えられる。  https://nspc.jp/senior/archives/19895/

  上記、引用は、2025年1月23日 人口・世帯 市場・消費  2025年、すべての団塊の世代が後期高齢者  変遷する高齢社会  株式会社日本SPセンター シニアマーケティング研究室 石山温子

2025/09/14

耐久レース 令和七年九月十四日 日曜

 灼熱の耐久レースと銘打つ中継、東京世界陸上の女子マラソンを観た。走路なかごろにさしかかって招待者集団が10名ばかりのかたまりとなってあっという間にトップに躍り出たから暑さにやはり強いのだろう。それまでアメリカの2選手がリードして日本選手が3位につけていたのだが、帽子を取り換えする姿で氷が入ったのをかぶるのはその対策であったと知って、なるほど灼熱サバイバルになったとテロップをみて思っていたから強さの違いを見せつけられたようなものだ。その集団は氷入りのキャップなど一人もかぶっていかくしてない。かくして王者然とエチオピア選手がトップになっていた。ゴール前の争いで追い抜かれてしまった。

>ジェプチルチルはティグスト・アセファ(エチオピア)とともに、41キロを走り終えて互角の勝負を繰り広げながら国立競技場に入った。顔をゆがませながらジェプチルチルは引き離そうとしたものの、残り200メートルでは元世界記録保持者のアセファがリードを奪った。しかし、ホームストレートに入ると驚異の粘りを見せたジェプチルチルが失速するアセファをとらえ、金メダルを手にした。  https://www.afpbb.com/articles/-/3598208



読みは、 MaaS マース となる。"Mobility as a service の略、サービスとしての移動を意味するが、実際にサービスを移動にするとは、カーシェアリング、ライドシェア、オンライン配車サービスなどがあげられる。飛行機と車の連続した移動サービスには、従来、レンタカーがあったが、鉄道路線と航空会社がその連携にむけて、MssSに取り組み始めている。これまでの予約支払いシステムでは個別になる、最寄り駅に停めた自家用車の駐車場代、新幹線の往復乗車料金、現地で手配したレンタカー料金、業務中の高速道路料金を一括にするアプリを持つことによって、わずらわしさがなくなるというが。

MaaS は、ICT を活用して交通をクラウド化し、公共交通か否か、またその運営主体にかかわらず、マイ カー以外のすべての交通手段によるモビリティ(移動)を1つのサービスとしてとらえ、シームレスにつなぐ 新たな「移動」の概念である。

MaaS (モビリティ・アズ・ア・サービス) について - 国土交通省 www.mlit.go.jp › pri › kikanshi › pdf 

MaaS(Mobility-as-a-Service)の本質を考える | アビームコンサルティング https://www.abeam.com › topics › insights › wp_maas 

https://www.abeam.com/jp/sites/default/files/field/field_pdf_files/WP001_MaaS.PDF

>少しご想像頂けただろうか。MaaS とは『あらゆる人々の移動/輸送ニーズに応えるために、情報・予約・決済を統合した移動/輸送サービスである。複数の「Services」を一つの「A service」にしたものだ。上記の May の 1 日は、MaaS(Mobility-as-aService)が人々の移動や生活にどのような影響を与えているかを示した一例だ。今まで移動は電車・バス・タクシー・自転車など、それぞれ個別に完結していたが、MaaS はあらゆる移動サービスと情報が一つのアプリに統合され、一括して予約と決済ができるサービスである。

JR東日本とANAは連携してMaaSに取り組みます|プレスリリース|ANA ... https://www.ana.co.jp › group  3 日前 - 〇東日本旅客鉄道株式会社(東京都渋谷区、代表取締役社長:深澤 祐二、以下「JR東日本」)と全日本空輸株式会社(東京都港区、代表取締役社長:平子 裕志、以下「ANA」)は、昨今国内外で活発に行われている「MaaS(Mobility as a ...

2019-08-31このブログ記事日付

https://smartdrivemagazine.jp/technology/maas/ 2019年4月6日 移動の概念が180度変わる ~MaaSが秘める移動の可能性~

>レベル0~レベル4

レベル0

統合なし、つまり移動媒体がそれぞれ独自にサービス提供している、現在の交通システムのこと

 タクシー、バス、電車、カーシェア、Uber

レベル1

料金・ダイヤ・所要時間・予約状況などといった、移動に関する一定の情報が統合、アプリやWEBサイトなどによって利用者へ提供されている段階のこと

 NAVITIME、Google、乗換案内

レベル2

目的地までに利用する交通機関を、スマホアプリなどによって一括比較でき、予約・発券・決済をワンストップで可能になる段階

 滴滴出行(Didi、中国版のUber)、Smile einhuach mobil

レベル3

事業者の連携が進み、どの交通機関を選択しても目的地までの料金が統一されたり、定額乗り放題サービスができたりするプラットフォームなどが、整備される段階

 Whim、UbiGO

レベル4

事業者レベルを超え、地方自治体や国が都市計画・政策へMaaSの概念を組み込み、連動・協調して推進する最終段階

2025/09/13

愛 令和七年九月十三日 土曜

 雨降り、秋雨と言うような、そんな代物ではないのは、線状降水帯とやらの西から東へそして北へと半端ない。だから、とても蒸し暑い。エアコンの除湿をためす。世間は連休である。


愛は漢語によってあらわされると、それには仏教語の概念がまずある。

世の中の愛である。

そして、西洋語の意味合いを持ってさまざま、神の愛のように宗教的な解釈が行われる。

漢語の愛の字は、字通によれば、後ろを顧みて立つ人の形を。それに心を加え、後顧の意を示す、(あい)+心 を、字義としている。

>愛は顧みて憂えるさまで、もどかしく不安定な心情をいう。また、ものがたちこめて不透明な状態にあることをいう  

 と見える。

漢語由来の語は、孝経‐聖治章 を用例とし、聖人因厳以教敬、因親以教愛 聖人厳に因りてもって敬を教え、親に因りてもって愛を教う を挙げる。

万葉集の例に、、語義として、親子、兄弟などが互いにかわいがり、いつくしみあう心、いつくしみ、いとおしみ と解説している。

万葉集〔8C後〕五・八〇二・題詞 による、釈迦如来〈略〉又説、愛無過子、至極大聖、尚有愛子之心 

 を挙げている。

愛の用例は、時代を下げて、12世紀から13世紀まで、仏語の解説を挙げている。

正法眼蔵〔1231〜53〕仏教  十二因縁といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色(みゃうしき)、五者六入、六者触、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死

日本国語大辞典より。

語誌

(1)「愛」字は、ごく古い時期には、仏教語としての用法を除いて、「うるはし」「めぐし」「うつくし」などと訓読みすることが多く、もっぱら身近な人間、主として親子・夫婦などの肉親の愛情のさまを表わしたと考えられる。

(2)中古以降は音読みの「愛」が漢語として定着し、「愛する」の動詞用法とともに、人に好感を与える魅力を表わす用法なども生じた。中世以降は、仏教的な、排斥され超克されるべき煩悩として取り扱われることが多く、この傾向は近世の終わり頃まで続く。明治以降、キリスト教的な西洋風の観念が取り入れられ、「愛」は再び種々の愛情の相を示すようになった。


字通より

 訓義

[1] いつくしむ、心を残す、愛(かな)しと思う、あわれむ。

[2] したしむ、情をかける。

[3] めでる、愛好する。

[4] 惜しむ。

[5] (にんべん)+愛 と通用し、ぼんやりした、不安定な、ほのかな感情をいう。


愛は国語では古語の「かなし」にあたり、「かなし」は哀・愛の語義を含む。〔万葉〕には「可奈之」「可奈思」などの仮名書きのほかに、「哀(かなしき)手」「春菜(わかな)摘む(つ)む兒を見るが悲也(かなしさ)」「あやに憐(かなし)き」のように哀・悲・憐を用い、愛の用例がない。愛は「愛人(うつくしきひと)」「愛(うるはしき)」「愛妻(うるはしきつま)」「愛(めで)の盛り」「最愛子(まなご)」「愛児(まなご)」「愛子(まなご)」のように用いる。〔記〕に「愛(うつくしき)我がなにもの命(みこと)」「愛友(うるはしきとも)」「孰(いづ)れか愛(はしき)」「愛悲(いとほしうれはし)」「愛重(うつくしみおもみしたまふ)」のような例がある。


ウイキペディアより。

日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味した。

近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「Love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。


2025/09/12

堂々巡り 令和七年九月十二日 金曜

 雨の日、気温が低下して30℃を下回る。東京の朝は22℃とか。秋雨前線になるか、。体調はいきなりの涼しさにどうなるだろう。フィジカルにもメンタルにもこの夏はハードである、タフな時季である。

言語表現フェスティバルと、言フェスと呼んだ。その発案は自分たちで舞台をつくる、演出をして形となった思いの青春を追い求めることにあったのだろう。謳歌する、作りたい、エネルギーをあらわす、そこに言語表現がある、その祭りを企画から立ち上げるというのである。その会議にわたしはいなかった。若者の情熱を傍にしてどうなるだろうかと思っていた。蒼穹の50年に、その軌跡はある。


堂々巡りという。語源で、はてと思うことがあった。まことしやかにと、思うようなことで、フィクションの世界に入ってしまうのはまた、ネットサイトの空間に堂々巡りをしてしまったということである。それではと、日本国語大辞典に用例があるかと検索をしてみたら、抄物という、いわば講義録に出てきた。その用例は、>古活字二巻本日本書紀抄〔16C前〕上「毎日一度づつなれば一年に三百六十度えいかねば、一年に同じ所へ行合ぞ。たうたうめくりする物があとへをっつくやうなぞ」 と見える。さてまた、巡る と、回る とが、表記による解釈をあらわしていて、民間に伝えられるのは巡礼あるいは祈願による現れを見ることになる。俳諧の用例を日本国語大辞典から引用する。>俳諧・崑山集〔1651〕一二・冬「時雨の比(ころ)清水寺にて 順礼とたうたうめくりしくれ哉〈貞利〉」


三省堂  どうどう めぐり だうだう- [5] 【堂堂巡り・堂堂回▽り】( 名 ) スル

①祈願のため,社寺の堂の周りをまわること。

②思考・議論などが同じことの繰り返しだけで少しも先へ進まないこと。 「話し合いは-するばかりだ」

③国会などの議会の採決で,全議員が順々に演壇上にある投票箱に投票すること。

④遊戯の一。手をつなぎ丸い輪を作って一か所をぐるぐるまわるもの。


http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B2%A1%B9%BD%E4%A4%EA

堂々巡りとは - はてなキーワード - はてなダイアリー d.hatena.ne.jp › はてなキーワード › 一般

>昔、現在の中国雲南省に二人の拳法の達人がいた。 一人の名は堂高、もう一人の名は堂虎といい、どちらも天下敵無しと言われてほどである。 しかし両名とも苗字が「堂」であったことから、お互いに意識しあい、 また人々もどちらの堂が強いかと噂するようになった。 そして双方ともに拳法家であった事から堂と堂は拳法で勝負することになり、雌雄を決することになった。しかし勝負は三日に渡ったものの、両者共に譲らず、決着はつかなかった。 そしてこれ以降も両者の争いは続いたという。

そのため勝負がつかない、いつまでも同じ事を繰り返すことを堂々巡りというようになった。

また今でも「堂に入る」という表現があるが、これはこの堂高・堂虎が拳法の達人であったことに由来し、 物事に優れていること、身に着いてることを意味する。

以下id:karmen追記


語源由来辞典の「堂々巡り」

http://gogen-allguide.com/to/doudoumeguri.html

 堂々巡りは、信徒や僧侶が願い事を叶えるために神社や寺のお堂の周りを何度も回る儀式のことを言った。

そこから、同じ事を繰り返し続ける事を「堂々巡り」と言った。

「お堂の周りを回る」と書かれていますが、もう少し意味の通りの良い解釈があります。

神社やお堂がたくさんある時代背景に、色々なお堂に次々とすがる様を言ったので「巡り」と続きます。


http://g-tavern.com/mimmei/doudou.html

民明書房~堂々巡り

>堂々巡りとは?

 昔、現在の中国雲南省に二人の拳法の達人がいた。 一人の名は堂高、もう一人の名は堂虎といい、どちらも天下敵無しと言われてほどである。 しかし両名とも苗字が「堂」であったことから、お互いに意識しあい、 また人々もどちらの堂が強いかと噂するようになった。 そして双方ともに拳法家であった事から堂と堂は拳法で勝負することになり、雌雄を決することになった。 

 しかし勝負は三日に渡ったものの、両者共に譲らず、決着はつかなかった。 そしてこれ以降も両者の争いは続いたという。 

 そのため勝負がつかない、いつまでも同じ事を繰り返すことを堂々巡りというようになった。 

 また今でも「堂に入る」という表現があるが、これはこの堂高・堂虎が拳法の達人であったことに由来し、 物事に優れていること、身に着いてることを意味する。 

民明書房刊『武道達人逸話集』より

初版発行1999年2月19日


ウイキペディアより

魁!!男塾

>民明書房(みんめいしょぼう)とは、作品中にたびたびその名が登場した、架空の出版社。

1926年(大正15年〜昭和元年)創業。所在地は東京神田神保町。社名は、中国の武術に関する本を出版した創業者大河内民明丸(おおこうち みんめいまる、1904年 - )の名に由来する。


http://matome.naver.jp/odai/2136231490106826801

民明書房刊の記事大全 まとめ【知っているのか雷電!?】

>民明書房(みんめいしょぼう)とは、宮下あきらによる日本の漫画作品『魁!!男塾』(さきがけ!!おとこじゅく)中にたびたびその名が登場した、架空の出版社。

1926年(大正15年〜昭和元年)創業。所在地は東京神田神保町。社名は、中国の武術に関する本を出版した創業者大河内民明丸(おおこうち みんめいまる、1904年 - )の名に由来する。

この民明書房の刊行物を引用するといった体裁で、作中で過去の偉人たちの逸話や登場人物が用いる武術、荒唐無稽な決闘方法、男塾内での常軌を逸した荒行などを解説して、ある種のリアリティを持たせた。作者によれば昔の忍者漫画で技に科学的な解説がなされていたことに発想を得たアイディアだという。その他に太公望書林や英学館、時源出版、曙蓬莱新聞社、ミュンヒハウゼン出版といった他社の出版物が引用されたこともある。


http://g-tavern.com/mimmei/index.html

>民明書房とは…?

20代以上の人には説明不要でしょう。 その昔、週刊少年ジャンプに連載されていた マンガ「魁!男塾」の中に出てきた架空の出版社のことです。 マンガ中に出てくる架空の拳法や武術に、民明書房の本で解説をするという(それもかなり強引な)ものでした。 (「天より高く」や「暁!男塾」で復刊(?)していますね) 

そこでそれを習って(←習うなよ)いろんな用語を解説しようというコーナーです。 ここに書いてあることはフィクションであり、 全くの出鱈目です。 知っていても何の得にもなりませんので注意してください(笑)


http://g-tavern.com/mimmei/internet.html

インターネットとは?作:Gilice

> 紀元前一六世紀頃、現在の中国は殷という王朝が治めていた。 そして当時、気功術の達人に太(たあ)という男がいた。 彼は独自の情報網を唱え、それを気功術の広布に使ったという。 この情報網のおかげで気功術法も中国全土に知れ渡り、 これが後の太極拳に発展した。 

 現在、コンピュータネットワークにも、 この太氏が唱えた情報網が元になっており、 殷時代の太氏によるネットワークという意味から、 殷・太・ネット(インターネット)と呼ばれるようになった。

民明書房刊『コンピュータ中国史』より

初版発行1999年2月19日


「堂々巡り」 の由来と語源 – 由来メモ

www.yuraimemo.com › 状態

2011/01/06 - 堂々巡りの由来堂々巡りとは、信徒や僧侶が願い事を叶えるために、神社やお寺のお堂の周りを何度も回る儀式のことからきたそうです。 お寺はわかりますが、神社? 神社はお堂とは言わない気がしますが。それならお百度参りってのがある ...

9.11特集 令和七年九月十一日 木曜

CATVの ヒストリーチャンネル、9.11特集 アメリカを変えた102分 視聴する。4半世紀が経過し、アルカイダ首謀者殺害の作戦から14年を経過する。テロ戦争と言われて、それはまだ続く現代戦争である。アフガン、アルカイダ、イラク、イスラム国と言ったISILアイシル、ISISアイシスと、直接間接に勢力による武力闘争である。

ニュース・ワイドショーで朝の番組を観ていた。画面にCNNが中継をずっと放送していた。それをつないでスタジオでは何が起きているかとただ騒いでいたように思う。と、そのとき、画面に現れた飛行機の影がタワービルに突っ込む瞬間が映し出された。一棟がもくもくと黒煙と白煙をまじえて燃える、その横に立つ角度の映像となっていたか。攻撃を受けたことを目撃してわかった。その記憶が鮮明である。


>9.11~アメリカを変えた102分〜  2001年9月11日に発生した、アメリカ同時多発テロ。日本ではほとんど公開されていない、当時の映像や無線でのやり取り、監視カメラ映像やテレビ局がカットした未放送映像を紡ぎ、テロ発生直後の緊迫の102分間を時系列に沿って振り返る。アメリカが変わったその瞬間、現地では何が起こっていたのか?真実に迫る。https://jp.history.com/rec/102min/

>アメリカ同時多発テロは、なぜ起きた? #01 テロ新時代の幕開け ◆特集:9.11 『#1 テロ新時代の幕開け』 1990年11月にマンハッタンのホテルで過激派のラビ(ユダヤ教の聖職者)であるメイル・カハネを暗殺した犯人は、エル・サイード・ノサイル。オサマ・ビンラディンに関連するテロ組織を発見した捜査官は、エジプト系移民のエマド・サレムをFBIのおとり捜査官として雇うことに。 https://jp.history.com/pgm/28482/

>アメリカ同時多発テロは、なぜ起きた? #02 ビンラディンの歴史 ◆特集:9.11 『#2 知られざるビンラディンの歴史』 CIAとクリントン政権の当局者は、ジハード・テロの増加により、テロへの理解と対策を進め、この間にビンラディンを標的とした極秘作戦がいくつか計画する。貴重なインタビュー映像、元戦闘員や友人など、彼を知っている人物からのコメントを通し、誰も知らなかった人物像を明らかにする! https://jp.history.com/pgm/28482/

>アメリカ同時多発テロは、なぜ起きた? #03 テロリストとの戦い ◆特集:9.11 『#3 テロリストとの戦い』 9.11同時多発テロ事件はどのようにして起こったのか、そして米同時多発テロを実行したテロリストたちの経歴、訓練方法、米国での生活、飛行訓練などについても徹底的に探究する。同時多発テロにより、アメリカで、そして世界で永遠に失われてしまったものとは? <最終話> https://jp.history.com/pgm/28482/

2025/09/10

蒼穹の回想 令和七年九月十日 水曜

暑いのは変わらず、日中の気温の高さに熱帯夜の夜半が少しでも変化すればと願う。天候が荒れ模様で低気圧と前線でその移りゆくにつれて雨の降りようがはげしい。短期集中雨量という雨のようすとそのまわりに突風と、それを竜巻だと認定してみえてくる被害地の災害を見る。とにかく線上降水にあたったところはニュースで報じられるひどい状況になるから、 怖い天災である。今宵は雨となって涼しくなることを思うが、蒸し暑さには参る。

首相辞任となって党の内情が沙汰される。幹事長が、官房長官が、総裁選に出馬すると、それだけでなく、前の選挙にもあったような、その時の5人が顔を出すか出さないか。派閥議員の争いのあるところで候補者を一本化するのがお家芸に近かったが前首相の担がれ方が自民党と言う政治家集団の実態を明らかにしてしまったので勝ち馬を探す候補者レースはどうなるか。

https://www.youtube.com/watch?v=THRbGzsILTo1349回 石破辞任の裏側に菅元首相の激怒があった 髙橋洋一チャンネル 回視聴 2025/09/10


蒼穹の50年、あたらしく言語コミュニケーコースに学ぶ仲間は卒業を迎えることになった。2002-2003 、はじめより。

パンダ王国に続いてパンダ3王国として、パンダパンダパンダをあらわしました。このパンダ王国は卒業を記念してへんしゅうをしてきました。2004年は言語コミュニケーション学科第1期生の卒業の年です。ゼミから言語文化コースの学生2名とともに日本語コミュニケーションの学生2名、あわせて4名の卒業生がいます。

>皆さんとこの4年間を振りかえると、感慨深いものがあります。とてもはやかった年月の流れのうちに、それぞれの学生生活があったと思います。将来を選んでいく先は決まりましたか?言語コミュニケーション学科のコースで培った実力を存分に発揮して活躍されることを祈ります。健康と友情とに恵まれて幸せな最高のパートナーを見つけてください。それはコミュニケーションを通して得ることです。そこで3つの言葉を卒業にあたって贈ります。健康であること、友情を持つこと、人を愛することです。健康と友人と、そして愛情は人生の伴侶です。愛情とはなにかを考えると、これは考えるものではないかもしれない、という疑問はさておき、愛とは離れられない心です。なにから離れる、放つのでしょう。愛着の語があり、執着の意味もあり、とてもすてがたい心の一面です。その愛情を育むというのは、ときには心に締め付けられる存在があったりして、それを愛の対象に見つけ出すことですから、そこから離れることができない、放たれることはない、そのともにあるものを抱きながら、それを人生のなかにもちつづけると、いきがいにもなり、生きていく力にもなります。離れることができないのは必要だからでしょう。そのだいじな愛情を分かち合うことができれば人生は最高です。皆さんの行く先々に皆さん自身が健康で友情にかこまれ、そして愛情が見つかるのを望んでやみません。ご卒業、おめでとうございます。健康であかるい笑い声と活発な議論をしたゼミに集う仲間たちを友とし、これからの人生にすばらしい愛を得て過ごしていかれることを祈念して、発表報告集の言葉を記します。  2004年3月24日


2025/09/09

仕合わせ 令和七年九月九日 火曜

重陽の節句、旧暦の9月9日ということで、めでたい日なんだが、ぞろ目に祝い事を重ねるのは、中国での発想かな。長寿を願い、無病息災を祈る、邪気払いである。陽の漢数字、九九に現代人の思いはありやなしや。良いことよいことの一方では悪いことが潜むから、邪気に忍び込まれないように。

猛暑日の記録、>名古屋市では11時29分に35℃に到達し、今年49日目の猛暑日となりました。昨日8日(月)に続き、観測史上最多日数を更新したことになります。この後も名古屋市付近は晴天が続き、37℃まで上がる予想です。  2025-09-09 11:35 ウェザーニュース

夏の盛り50日に喃々とする、あと旬日に及べば、ほぼ真っ盛りに炎暑連続だったということなのか。身も心もというのを脳も循環機能もふやけて仕舞う、のではなくて、とろける、いや逆であり、焦げてしまうかに、固まってしまって、動かなくなる・・・


https://www.youtube.com/watch?v=n73Xukx_R_0  1347回 メガソーラーは効率が悪すぎる上に中国だけが得をする!  髙橋洋一チャンネル  229,883 回視聴 2025/09/08


蒼穹の50年、言語文化コースの有終の美を飾った個性は強烈と言ってよい。卒業後の活躍を聞くこと多々。

>ことしもゼミ企画で大学祭に参加しました。ちょうど主宰者が中国での学会発表のために出張することと重なり、すべてをゼミ生に託すことになりました。学園祭でフィーバーしてやろうと言っておきながら、ずいぶん得手勝手なことになりましたが、ゼミ生諸君は協力して、それはもうすてきな展示を実現してくれました。(中略)すでにこのとき、わがゼミのソコ力は証明されて、言語文化コースのさよならパーティーに向けてゼミ生一致団結してのパワーを発揮します。本当によくやってくれました。あらためて2年間のゼミ活動に思いをはせます。

表紙を飾るひとりひとりにそのまなざしがある。はじめに書いた文言は無用であったか。

>これからの前途を祝し、つたないコトバを連ねます。去る1月24日に行われた言語文化コースさよならパーティーで、皆さんに贈る言葉として綴ってみました。  生きよ生きよと思う/ おきたら起きようと思い / たべるときは食べようと思い / 眠るときは寝ようと思い / するときには しよう と思い /どんなときにも生きようと思い / なにがあっても生きていこうと思う   2003年3月22日 


仕合せ、仕合わせ、こう書いていたら、このようにも書く言葉と知った、という、声があった。

し合わす、為合、と説明がある。


それをまた、幸せ、幸、倖せ、と、書くのが普通である。

あるいは、幸福、と、表記して、しあわせ、と読む。


幸字について、幸の義はおそらく倖、僥倖にして免れる意であろう、のち幸福の意となり、それをねがう意となり、行幸・侍幸・幸愛の意となるが、みな倖字の意であろう、と、字通は説明している。

訓義に、倖と通じ、さいわい、こいねがう、めぐむ、したしむ、みゆき、いでまし、と見える。


さて、倖せは、めぐりあわせのことである。

それをよい場合に使うのは、後世のこと、文字づかいが漢字によって意味する内容を表して、幸せとなった。


そなたは仕合な人じゃ、という用例を見ると、中世のこの狂言の台詞に、いまも通じる意味があるようである。

しあわす、は、為合、仕合として、する 、あわす、の事であるから、うまくはからって、ふさわしい状態になるようにする、合うようにする、つじつまをあわせる、うまくやりおおせる、間に合わせる、という意味内容を持って用いられていた。


また、不幸の意味に用いる、しあわす、という例もある。

幸字を検索してみる。


8. さい‐わい[:はひ]【幸】 日本国語大辞典

(「さきわい」の変化した語)【一】〔名〕(1)(形動)神仏など他が与えてくれたと考えられる、自分にとって非常に望ましく、またしあわせに感じられる状態。運のよいこ ...

9. さき【幸】 デジタル大辞泉

幸福。さち。 「ますらをの心思ほゆ大君の命(みこと)の―を聞けば貴み」〈万・四〇九五〉 ...

10. さき【幸】 日本国語大辞典

〔名〕さいわい。幸福。さち。*万葉集〔8C後〕一八・四〇九五「大夫(ますらを)の心思ほゆ大君の御言(みこと)の佐吉(サキ)を聞けば貴み〈大伴家持〉」*和訓栞〔1 ...

11. さき‐く【幸】 日本国語大辞典

〔副〕さいわいに。無事に。変わりなく。つつがなく。旅立つ人の無事を祈っていう例が多い。*日本書紀〔720〕神代下(兼方本訓)「爾(いまし)、皇孫、就(い)てまし ...

12. さき‐わい[:はひ]【幸】 日本国語大辞典

〔名〕幸運にあうこと。さいわい。幸福。さちわい。*仏足石歌〔753頃〕「佐伎波比(サキハヒ)の厚き輩(ともがら)参到(まゐた)りて正目(まさめ)に見けむ」*万葉 ...

13. さく【幸】 日本国語大辞典

〔副〕「さきく(幸)」の上代東国方言。*万葉集〔8C後〕二〇・四三四六「父母が頭(かしら)かき撫で佐久(サク)あれていひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる〈丈部稲麻 ...

14. さけく【幸】 日本国語大辞典

〔副〕「さきく(幸)」の上代東国方言。*万葉集〔8C後〕二〇・四三六八「久慈川は佐気久(サケク)あり待て潮船に真梶(まかぢ)繁(しじ)抜き我(わ)は帰りこむ〈丸 ...

15. さち【幸】 

1 海や山でとれる食物。獲物。収穫。「海の―、山の―」 2 しあわせ。幸福。さいわい。「―あれと祈る」 3 獲物をとる道具。また、それがもつ霊力。 「各(おのお ...

16. さち【幸】 日本国語大辞典

〔名〕(1)獲物をとるための道具。また、その道具のもつ霊力。*古事記〔712〕上「火遠理命、其の兄火照命に、各佐知(サチ)を相易へて用ゐむと謂ひて」*日本書紀〔 ...


2025/09/08

大谷選手の2HR 令和七年九月八日 月曜

 起き掛けに先頭打者本塁打、連続2本で2本で47号、48号と大谷選手の躍動が伝わる。ただ投手は菅野選手だったから、大リーグのニュースに投手と打者の日本人対戦というのも、そしてそれを聞くのが海外ニュースとなると、複雑な微妙さがある。日本野球はセリーグで阪神タイガースの優勝が決まった。

総裁公選に賛成とか反対とか、自民党内に紛糾しているお家騒動は公選を実施して党が割れる、壊れるのを防ごうということらしい。すでに辞意表明をしてフルスペックでやるとか簡易方式でやるとか、よくわからない、10月初めまでの政治空白のようすに、あれは1年前のは9月終わりだったかと思い出して、なんだかメディアの報道が危うい。


ゼミ企画で大学祭に参加しようと主宰者の発案で、2000年11月4、5日、あいさつに曰く。

>学園祭にほっとした空間を設けるため、ゼミ発表のレポートを展示し、皆さんからの質問に答えるべく、中国茶などを用意してお待ちしています。どうぞご遠慮なく、おくつろぎくだされば幸いです。2000年11月4、5日  大学祭で好評であった、と自画自賛し、それで、プリント展示したものを冊子にできればいいなあと、計画しましたが、1年半を経て今日にいたりました。ゼミ構成員の一人一人の研究は、2年にわたって13人の3回通りの発表で39のプレゼンテーションを数えます。それぞれの研究が発表に込められています。

きっかけはゼミの活動を学習成果として公表することであった。展示にはレジュメをそのままパネルにしているから、普段の学習がそのまま表れている。優れた学生ばかり。冊子の表紙のような、パネルをさらりと描き上げてしまうのである。

>したがって、この発表集はその後に行われたゼミの発表をふくめて、2000年2001年のプリント資料と報告をそのまま冊子にしています資料の内容と論文は発表者のものですが、この冊子についてはゼミ主宰者の責任編集ですそれぞれに至らないところも多いのですが、熱心に学習し、ひたむきにテーマを追求していると思います。なお、冊子名に「パンダ王国」とつけました。研究室はパンダの中国土産がならべられていて、パンダの好きな先生ということから、ゼミ長の一声で決まりました。  2002年3月22日

学生の研究意欲をいかに引き出すか、と、大げさに言えばそんなところで、この冊子を卒業に一人ずつ、ゼミ参加者は持って去っていくわけである。ゼミの思い出を仲間とともに抱いて10年、20年、いまそのときになる。

 蒼穹の50年

2025/09/07

総裁の辞任表明 令和七年九月七日 日曜

 半導体の話を観た。NHKスペシャル、1兆円を託された男 〜ニッポン半導体 復活のシナリオ〜2025年9月7日。番組紹介には、>7月、日本の新興メーカー・ラピダスが最先端半導体の試作に成功した。革新的なナノ構造で高性能を実現。AI社会の要になると期待されている。投入された税金は1兆円超。その量産化には日本の命運がかかる。プロジェクトを率いるのは社長・小池淳義。日立の社員だった頃、半導体工場の斬新なビジネスモデルを構想するも、挫折した経験を持つ。この1年、ニッポン半導体復活を賭け、量産ラインの構築に奔走した小池の姿を追った。https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/NWQKL47GY6/

半導体の勉強をした方がいいですよ、と鋭く語る小池さんの言葉に、先へ行く、進むしかない、止まったら死にます、さきに進むことをやめたら半導体はおしまいです、と学生に語っていた。1.5兆円の税金を使っているともう少し情報を知らせてくれてもいいんじゃないかと取材のディレクターが詰め寄るのを聞いていて、NHKおまいうか、と思ってしまった。

キシバ政権、石破首相が辞任を表明して、政治の壊れかけた会見をして、どうにも国民の支持率が伝わらないような、ニュースコメントでは偏った内容を示して、どうにも何がいけないのかということがわかっていない。日米貿易関税が区切りをつけたというけれど、トランプ追従のままの政権にならなくてよかったと思うのは、いま雲隠れしてしまっているトランプ大統領署名に至ったディールが日本国民にどう跳ね返っているのか、先行き不透明になっている。

ヤマモトノーノーの最後の最後にHRを打たれて、9回2死から始まったドジャースの悲劇となる4点を奪われた逆転ゲームである。ベテランキャッチャーと2番手ののけがと言う、ここ見えていた不安はそれでもよかったのだが、もう一人メジャー昇格したての新人は詰めで配給を誤ってしまったのかと見えるような単調さだった。いつの間にかファンになってしまっているのは、負け方が悪いと気分が悪いから、か。

2025/09/06

縁の下の力持ち 令和七年九月六日 土曜

 思い出さずとも忘れはしないとも、もうボケていくから、いつまで覚えていることがよいのか悪いのか、時代は移り変わったようだし、わたしがボケるのも時間のことになる。引退して悠々自適にないのはまだ整理がつかないと言うことか。めぐりあわせの答え合わせをしなければならないのか。

人生に愚痴を言うようなものだから、いわずしてこのまま、そおっとしておくほうがよい。そうは言いながら、どうも自分の努力とその結果とが釣り合わない、というわけでもなくて、ただ、そうなること、できることを進んで、その解決にあたってきた。あれもこれも、そうだから、身体のバランスをとるように、うまくしてきたつもり、だが、だいぶ助けられている。

ついの棲家と決めた職場では少なくとも数回は危機を乗り越えている。数回とは、東京方式の、2、3のことでなくて、大阪方式で5、6回である。そもそもコース設定に招請されているから、その働きやいかに、と言うことになるが、これまた、スタッフによるとんでもない出来事に腐心をするようなことが多かった。

組織は無力に見えた。自分が生かされていたからその背後で有力であったのかもしれない。信用を持つという信念に支えられていた。それこそが人にわかりにくいところでもあるが、その場を救ってきたことになるので、それ以上の証明はない、要らない、誰が穴埋めをやったかわからない、というようであって、人にそれを見せるようなことでもない。

2025/09/05

自分が見えない、かな  令和七年九月五日 金曜

 台風15号が過ぎ去った。午後には、青い空が当地では見え始め、晴れてきた。この3日間に、いっとき28℃の日中気温の日があった。からりとした日ではなくて陽が照っていない、台風直前だった蒸し暑さがある、しかしそれが夏の暑さだと思い知ることはなはだしい。台風一過、はて、暑さは戻るだろうなぁ。いま、東へと線状降水帯の予想が移っていく。突風と豪雨の荒れ模様におののく。

政治勢力が割れ欠けていくような、われてかけると、こがついて壊れていく、こはいかに、なぜにこうなっているか、ねばねばとここまで言ってきたのにはついには粘るということか。そうなるべく、解散をちらつかせて、その先にあるのは、大連合とやら、それにしても居心地悪し、それなりのコメントをつけているのだろうけれど、トランプと一蓮托生のようなことを発言している。この刻々が、インドが中国寄りになったのは、アジアの不安定さを作っている。



2025/09/04

はじめの記、蒼穹に 令和七年九月四日 木曜

台風15号九州に接近して上陸するか、 9月4日16時の推定で、台風15号、ペイパーは宮崎市の南の海上を北に進んでいる、東へと進路を変える見込みで、明日5日金の朝には四国付近に達する模様。秋台風の勢力となると風雨が強いので、行く先が心配である。

ゼミ報告集はゼミ発表のレジュメと卒業論文の草稿をそのままプリントしてゼミ生内に卒業時に記念として渡している。学生にとっては3年の学習と研究の活動をゼミ生とともに行ってきたものをまとめてあるので仲間づくりの好い思い出となるというふうに主宰者が独り決め――

受ける側にとってみればいうところの学習の軌跡であるからそのひとつの記録となっている。入学して卒業までにあれこれと勉強しただろう。ゼミに所属してみればプリントに自分の小見が込められているわけである。

はじめに、として書かれている毎回の文言を紹介する。

>言語コミュニケーションを学んだあかしに、プロジェクトの報告集をまとめました。AS大学学部学科コースに学び、日本語教育・日本語学を年度に受講した、学生のプロジェクト報告集です。報告集の*冊目をあらわしました。これは卒業を記念として編集をしてきました。*年は学科第*期生卒業の年です。ロジェクトにはプロジェクトには、日本語コミュニケーションコースの学生*名の卒業生がいます。  報告集 はじめに より

2025/09/03

発展継続という解消 令和七年九月三日 水曜

 日経記事の連載、朝刊に、私の履歴書、宇宙飛行士になって向井さんの記事を読む。3回目ガキ大将になるのだが、この回までで、おやぁと。淡々と記述があって、興味深いことに――

蒼穹の50年もこう書ければいいがそれには宇宙飛行をした経験のようなことがなければならない。ふりかえってみて記録に値することもあるかどうかと考えてしまう。個人の経験で忘れられないことに目を向けて、坦々と記述できればいい。

パンダ12王国、2012年度の発行である。タイトルには、応用言語学・日本文化論・日本語学と見え、プロジェクト研究論集とした。表紙デザインに、2013とするなど、その様子に変化がある。この冊子を以てピリオドを迎えた、その思いがあふれている。


はじめに より >みなさんと過ごした2年間のゼミ、続いて、卒業年次のプロジェクト仲間は、とても楽しく知性の豊かな人たちの集まりでした。この学年をもって言語コミュニケーション学科はその歴史を終えます。ひときわ輝くみなさんでした。このゼミは2名でスタートし、そこに1名を加えて、楽しく学ぶことができました。活発な討論が行われて、ときには秋空のもと風に吹かれて香嵐渓の紅葉を鑑賞しようと出かけたりもしましたが、それも後日談をつけての思い出のゼミとなりました。10号館のゼミ教室から、ずっとこれまでもそうなのですが、ゼミ生として互いに力を合わせてそれぞれに成長してきました。振り返れば、入学のあと、日本語コミュニケーションコースは激動をやり過ごしたばかりでした。わたしのゼミには変わらず、また日本語コミュニケーションコースには明るく活発な学生が集まっていましたので、さまざまな思惑が入り交じって、この10年間を象徴したようにも思います。言語コミュニケーションコースで培った実力を存分に発揮して活躍されることを祈ります。コミュニケーションを通して得ること、健康であること、友情を持つこと、人を愛すること、それを人生の中にもちつづけると生きがいになり、生きていく力にもなります。愛があって、そのたいせつな愛情を分かち合うことが人生は最高です。          2013年3月15日

2025/09/02

コースを閉じる思い出 令和七年九月二日 火曜

 蒼穹の50年、殿とは。しんがり。その意味は、困難な状況で最後まで責任を全うする。

おなじ組織に新設の長と赴任した方が、殿大将と言ってくださった。誉め言葉なのか、どうだったのか。引用の語に意味を悟って、励ましてくださったのだろう。ユニークな方であった。

さて前コースの言語文化を閉じるのに7年かかっていた。在籍は往復学生8年というのがあって、その在籍期限までと頑張っていたものだったから。

言語コミは学部だけでなく、その上の院もそのめぐりあわせ、コースを閉じる役割となった。さきの方の、異文化コミに6年在籍が可能であるから、めっぱいに頑張っている人がいた。

これは学位取得に資格が絡むから、閉じるのは容易ではない事態が起こる。ながく教員生活でその仕上げに学位取得を目指すから、さらに年数がかさむ。

しんがりには、その華々しい突撃の先陣大将よりも、大変だよと言ってくださったわけで、まさにそのとおり。切りこみも勇敢であのだが、おわりの気を配るのも大変なことである。

言語文化の卒業にサヨナラパーティーを企画して和気藹々になったのは幸いだった。それだけの思いが卒業を契機にしてあふれたのである。謝恩会ではない、かろやかな旅立ちだった。

 2010年 平成22年  言語コミュニケーション学科  募集停止

 2005年 平成17年  異文化コミュニケーション専攻を言語コミュニケーション専攻に名称変更 (博士課程 異文化コミュニケーション専攻  翌年、廃止)

 https://www.aasa.ac.jp/gakuen/history/index.html   歴史と沿革 による

2025/09/01

始まるQL 令和七年九月一日 月曜

 パートタイマの時間講師で出講する。まだ、と、あるかもしれないから、出校がいいか。

夏休み明け、月曜からいきなり、連日の最高気温が40℃にもなりそうななかの出勤である。

もう動けなくなってと言って、論理的思考などいう科目名からして勤まりますかな、あなた。

一コマを済ませて帰りくるも、時間いっぱいしゃべってしまったから、ちょい、反省。

聞く側になってみると、その身になれば、こんな授業にたまったものではない。

リマインダを披いて、

夏の終わり 2022年09月02日 記事を見て、2025年も同じことをしている、つぎは3年前。

1日、帰省していた娘が東京へ。21時22分新韓線に乗車、混んでいたようだ。盆お休みをはずして24日に帰って、1週間、いつもウナギを食するので、帰ってくると名駅、クロスビルの白川店に行く、そしてその前に1泊2日で淡路島へドライブをした日曜日休憩をはさんで、月曜はテレワークをしていたから夏休みの状況も変わって、オンラインで会議までやっていた。旅の疲れは取れて、と言いたい私だが、29日月曜日には車の修理があり30日月曜には補習授業に出かけた、それで31日は誕生日祝いをしたので8月の終わり、あわただしく夏は去っていった。


ちなみにこのときで、2,398,377,600 秒

生まれてから、何日間、何時間、何分間および何秒間経ったhttps://keisan.casio.jp/exec/system/1202449487経過日数 27,759 日経過時間 666,216 時間経過分 39,972,960 分経過秒 2,398,377,600 秒<メッセージ>人生まだまだ、健康に気をつけ30億秒だ!

それで、ことしの誕生日にあわせ、計算する。

https://keisan.site/exec/system/1202449487

    1. 経過日数
      28,824
    1. 経過時間
      691,787
    2. 時間
    1.    経過分
      41,507,241
    1.    経過秒
      2,490,434,460
    1. <メッセージ>
    1. 人生まだまだ、健康に気をつけ30億秒だ!


令和八年六月十五日 月曜日 民俗にあるもの

 民族じゃなくて、民俗だろうに、ミンゾクはどうなったかと検索してみて、でてきた、でてきた、ヒットしたのは柳田国男、折口信夫とあいかわらぬ研究者名の古さには文化人類学という皮衣ができた、のだった―――しかし柳田国男はフォークロアーとエスニシティ―を論じているようだから。 人類学と文...