9月、いまは昔、14年前だった―――
2013-09-18
平常心是道は、へいじょうしん と読めば、ふだんの平穏な心となるだろう。それを仏教用語として、びょうじょうしん ビャウジャウと訓じて、日常ふつうの心、ふだんの気持、あたりまえの生き方を言う。無門関‐一九「南泉、因趙州問。如何是道。泉云。平常心是道」と見える。
いわばこの語にすくわれることになるのは、しばらくしてからであるが、入院中もずっとこれを唱えていた。生と死の境であればこの語は役立たない。そのままに生きているか、あるいは死ぬからである。この境地を体得することは日常そのままである。死に隣り合うよりは生にあって病労苦を感じるときである。
肺がいくつか部屋がありその18分の3を切除すると言われて、肺活量を測って人並みに余裕がある機能であるからその分には日常活動に影響しないと言われて、言われるがままになった。結果として機能回復は進んでその処置はその事実を受け容れることになる。そのように告げられたときは、インフォームドコンセントのありようで、右3分の1であると思い至ったときはどうなるかと思っていた。そのときは、それはまだ平常心の何たるものではない。
目覚めて背中が突っ張って仕方がなかった。全身麻酔が効いていて、不自由なだけだった。縛りつけられているのではないが、とにかく体が動かせないことが痛いと思わせる。動けばどうなるか、神経はそのようには働いていない。押さえつけるように軽いタオルをかけているだけでずしりとベッドに沈み込むかの体の漢字ようである。背中が痛いので首を枕に突っ張って支えにもならないが痛み止めの管が入っているところをずれないように緊張していた。
看護士がベッドに1枚、敷布を足すだの、身体を拭くだの、もう少し姿勢を寝やすくするだの、いろいろ言ってくれるのはいいが、麻酔冷めやらぬ体は一向に動こうとしない。首のツッパリを触ってみて、背が痛くならぬようにする思いと裏腹に、肩と首の付け根が腫れていると記録されたらしく、とっかわりひっかわり確認されたりした。
このときは、まだ平常心などと言うことはいらない、身体状態だった。
その日のうちに集中治療室から一般病室へ移された。
入院当日には、どうだったろう。
2011年9月12日
名古屋第1赤十字病院に入院した。
呼吸器外科病棟9階だ。
朝は10時にやってきて、手続きをしていまは、ひと段落する。
シャワーを浴びるのは今日を限りで、後は7日ほど、我慢をすることになる
いま3時前でシャワーの予約をしてあるので、これから浴びてくると・・・
パジャマに着かえて、いざ、ベッド生活が始まる。
何やら同意署にたくさんのサインをしている。
肺癌手術同意書
深部静脈血栓・肺塞栓症の予防についての説明同意書
抗生物質によるアナフェラキシーンショック防止のための同意書
輸血・特定生物由来製品の使用に関する説明及び同意書
ことのおこりは、どういうことか。
先ほども看護師さんが、一通りのこととして尋ねた。
多発性関節炎はいつからですかと、それは5月28日に専門医に診てもらったことを、ちょうど薬の処方があるので、話して、今年のことですかと、そうですと。
それで、定期健康診断にかかってレントゲンがひっかかって精密検診でこちらに来たことを言う。呼吸器内科を探して診てもらって、こうなっているわけで、いまだにどうなったか。わかってから40日余りだ。
8月1日に来院、医師にかかって、2日にもPET検査を受けて、それから15日にMRI検査で、その結果が17日にわかった。検査結果も疑いが出て、内科的な処置では済まないので、外科を紹介されて、22日に説明を受けた。もうその間では、外科による処置の方向で術中診断ということになって、その時に入院の日取りが決まった。9月2日に外科部長による説明で、これもまたその流れであった。診断がつかないままの入院だ。
7月1日の定期健康診断から、そのフィルムは28日に精密検診が必要だとの判定であったから、すでに写真撮影の時から2カ月が経過した。
順調にこともなければ、23日にここを出ることになる。
抜糸はその2週間先にあって、そこで回復が決まる。
麻酔医がきて、次の説明を受けて、サインをする。
全身麻酔・硬膜外科麻酔についての説明と同意書
若い女医で、名前をひらがなで、ももこ、と書いてあった。
2年前のその日、ひとつの命をおくる。病室は相部屋であったので、カーテンで仕切られた窓側のコーナーに、ベッドにしばりつくように寝ていた。食事はさだめられたとおりに摂って日に日に体力の回復を見る。動けないのだけは苦労した。とにかく首をつっぱって背中を浮かすしかない。全身突っ張って痛いのだから、そうでない、そうならない姿勢を探すことになる。電動の背もたれを上げ下げするのが一大事のことであった。その生活にカーテンの向こうの、もう一つの窓側のコーナーに元気な方がいたのだが・・・
テレビをご覧になる、そのためにはコインがいる、そのコインを請求してやり取りをし、ベッドから落としてナースコール、トイレに自力で行こうとしてベッドから落ちる、介護をしようとするとことわる、それで便器を持ち込んでするのだがうまくできたのかどうか、見回りが来てたしかめて清掃となる、それで世間話をする、なんともにぎやかい、だが、どうもようすがおかしい、だんだん声に張りがなくなる、ように思えたら、寝る息のままにお休みだったりして、それをくりかえして、生とのたたかいだった、そう聞こえてくる。
容態が急変したか、深夜の騒ぎにベッドをナースセンターに移したらしい、明けて戻ってきて事なきを思ったが、続々と、3人4人と家族が出入りする、それでまた付き添いで夜を過ごす、小康を得ていたかのような動きであった、どうもだいぶ具合が悪いらしい、ここの病室に来る人は大体が同じ疾患である、退院する前には同じ説明を2度聞いたような気がする、それは入院初日に聞いた同意書である、そうするとどうか、またの深夜にうめき声があり、人を呼ぶようであった、付き添い者はベッドを離れていた、ナースコールはしなかたのか。
あわただしく人の出入りがあって、急診に機械を持ち込んでもいたようであるが、次に静まり返った、家族がいただろうにどこへいっていたのか、しばらくして、天井を見上げながら息をひそめる気配を感じながら、忍び泣きを聞いた、あけてまた、つぎつぎと出入りがあって、ベッドの周りに椅子を据えて声をひそめていた、どうもなくなられたらしい、時を経て、出入りが激しくなり、ベッドは運び出された、あれほどにぎやかな、元気なようすであったのに、私はといえば、動けない身体を何とか持ち上げようと腐心する毎日だった。
あのとき呼んでいた、たしかに、家族がいたはずだから、近くならきこえていただろう、ナースコールを押せば、押すか押さないかで大声でやり取りをしていたから、異変だとして自分が押していればどうなったか、と、ふと気づいたときに、すべてのようすがなにもわからぬままの、結果でいえばそうであるという、隣り合うベッドの思いがよぎってしまった、カーテン閉じきったままの空間がすっと広がってそして、わたしにおしつけてきた、ひとごとではない、ひとごとどころではない、わが命だという思いとともに、だんだんとわかってきたのは、それもいつだったか。
こういうときにはどうするのだろうと、何かわかるか、告げられるか、だれもがなにごともすぎゆくままに、なにもわからないままに語ることはなかった、いつものように早起きで朝焼けをじっと見続けていた、それから誰にもこのできごとを話すことはなかった
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