日本語教育思い出の記 ―「私説」として歩んだ三十五年―
序:私説という矜持
「私説」とは何だろうか。一見、個人的でいかがわしいもののように思えるが、言葉という生々しいものを扱う以上、既成の枠組みに収まらない「個の思考」こそが本質を突くことがある。わたしの日本語教育の歩みもまた、現場での格闘から生まれた「私説」の積み重ねであった。
二足のわらじ:大阪と豊橋を繋いだ修行期(1978-1983)
わたしの日本語教育者としての出発は、1978年の大阪外国語大学(現・大阪大学)留学生別科での非常勤講師に遡る。同時に、1979年からは愛知大学文学部に助手として奉職し、国文学・国語学の教育にも携わることとなった。 毎週、新幹線で大阪へ通い、留学生への日本語教育と日本人学生への国文学講義を並行して行う日々。この「二足のわらじ」を履いた五年間こそが、わたしの教育者としての基礎を形作る「怒涛の修行期」であった。
開拓の十年:愛知大学での挑戦(1979-1989)
愛知大学では助手、講師、そして助教授として、国文学を講じる傍ら、日本語教育の組織化に邁進した。 1979年からは中国大学教員(進修生)を受け入れる独自のプログラムを構築。1984年には交換教員として北京語言学院へ赴任し、天安門での国慶節式典や人民大会堂での晩餐会という、激動の中国を肌で感じる機会を得た。帰国後の1988年には、豊橋キャンパスでの留学生別科開設に尽力し、カリキュラムデザインや教科書編集など、オリジナルな教育体制をゼロから作り上げた。
専門日本語教育の確立:豊橋技術科学大学への転出(1989-2000)
1989年、私は大きな転機を迎える。国立の豊橋技術科学大学へと移籍し、工学部の留学生や研究者を対象とした日本語教育を担うことになったのである。
当時はまだ専門日本語教育(ESP)の概念が定着する前であり、理系の留学生に対する指導は「孤立無援」の戦いであった。しかし、ここで培った高度な日本語指導のノウハウは、後の大学院教育へと繋がる重要な資産となった。
結実の時:大学院教育と「生涯教師」の現在(2000-現在)
2000年からは愛知淑徳大学、そして大学院へと舞台を移し、日本語研究の博士指導や修士教育に従事している。
かつてボランティア講座のパイオニアとして種をまいた1980年代から長い月日が流れた。今、目の前で博士論文に取り組む留学生たちが、修了後に母国で日本語教師として羽ばたいていく姿を見るにつけ、この「私説」の歩みが間違いではなかったと確信している。現場に立ち続ける生涯教師として、私の探求は今も続いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿