2026/01/13

令和八年一月十三日 火曜 ひより

 晴れて冬びより、日和と書くが、この ひより は、にわ でもあるから、それを語源とする、とするか、語の由来はすこぶる日本語であることを知る。そしてまた、表記と読みの関係を考察するに国語の論証は果てしがないもののようにも思える意味の論である。


>以上、あげた所は頗る錯雜してゐるが、日和といふ字面は仙覚が「にはよくあらし」といふ歌の解に「日のやはらきたるをにはと云なるべし」と説いた所に源を発し、その説に基づいて「日和」といふ字面を生じ、それが「ニワ」とよみも書きもして「庭」又「爾波」といふ万葉集の語に充てられて来たが、その「日和」といふ字面が上の注解の意味からいつしか「ひより」といふ國語に充て用ゐられることになり、後にはその「ひより」といふ語には專ら「日和」といふ字面が用ゐられて、それが「ニハ」といふ語の解釈から生じたことや、「ニワ」といふ語の為に生じた宛字だといふことなども忘れられてしまつたものらしい。

http://snob.s1.xrea.com/fumikura/yamadayoshio/hiyori.html

国語学に初出がある。國語學第2輯: 239—268. (1949)

日和考 山田孝雄


>要するに「ニハ」といふ語は地形的に平坦な廣い面をさすけれども、それには同時にその用途がつきまとふ。即ち或るしわざを行ふに適する場所としての平坦な廣い地面又は水面をさすといふべきであらう。而してこれが古来種々の場合をさす語となり、いろ〳〵変化して「バ」といふ語を生じ、遂に「ニハバ」などといふ語も生じたものと思はれる。

然るにたま〳〵万葉集の歌詞としての「ニハ」がその意味を十分に認められずして海面をいふ場合に於いて特に不十分な見当のちがつた解釈が行はれた為に「日の和げる」といふ言に誤られ、且つ、その誤りはじめられた時代が「ハ」と「ワ」との発音の錯雜した時代でもあつた為に日和といふ字面が按出せられて大たる誤解を導き、その「には」の好きことが事実上日よりのよき事であつた為に「ひより」といふ語と日和といふ字面とがいつしか合体して日和の二字が「ひより」とよむべく固定した形になつたものと思はれる。

自分は万葉集をその時代の人の常識としてもつてゐた樣に再認識することが万葉集研究の第一義だと信じて多少の著述もした。しかしながら又中世の人が万葉集を読み誤つたことが基となつてその頃から後に生じた語も少からず有ることを知り、國語の学問としてはこの方面の研究も亦重要な点の有ることを思ひ、多少人にも勧めて見たが、その精神が徹らなかつたのか、別に之といふ研究も未だ世に公にせられてゐないやうである。然しながらこの方面のことは室町時代の頃から江戸時代、古学の復興する頃までの文藝即ち連歌俳諧、謠曲、淨瑠璃、御伽草子、草雙紙等の研究に於いて特に重要な点が存すると思ふ。而して、これらのうちには正しい國語学の正面の研究だけではかへつて分りかねるものが少く無いのである。ここに論じて来た日和をひよりとよむが如きはその著しい例である。自分はこの方面の研究の必要なことと提唱する為、一の例としてこの拙稿を草したのである。

(昭和二十三年三月廿日稿七月三日再治)

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