「昔」という地層をさかのぼり、「大麦小麦」と響く今を生きる
「昔」という言葉を英語にすれば、old time や past となるが、その手触りは一体どれほどの厚みなのだろうか。
日本語には「十年一昔」という言葉がある。
それを基準に考えれば、百年、千年、一万年とさかのぼるほどに、言葉の響きは「むかしむかし」「そのまた昔」「大昔」と深まっていく。
根拠があるわけではないが、千年、二千年と時をさかのぼれば、それはもう個人では測りきれない「大昔」の領域だ。縄文、弥生、そして古墳時代。あの頃の日本列島には、一体どのような時間が流れていたのだろうか。
「有史」という境界線
「有史以来」という視点に立てば、今から千五百年ほどはさかのぼれる。
しかし、本当の意味で「歴史」として血が通い始めるのは、神話が文字として記録された七世紀頃からではないか。それ以前は、断片的な逸文や、文字の向こう側に霞む遠い記憶の中にしかない。
もし「十年一昔」という感覚が今の時代に合わないのなら、それを三十年という「世代」の区切りで捉え直すこともできるだろう。
私自身、七十代という世代に身を置き、昭和後期から平成、そして令和へと続く時間の連続性の中に立っている。
執着を手放す「応無所住而生其心」
しかし、積み重なった時間に執着しすぎてはいけないのかもしれない。
禅の世界で最も重要視される言葉の一つに、金剛般若経の『応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』がある。
「まさに住(じゅう)する所無くして、而(しこう)してその心を生ずべし」という教えだ。
道を求める者は、何物にもとらわれた心を起こしてはならない。
立場に執着せず、一切の固定的な観念や思いを捨て去り、心に一切のこだわりがないようにせよ、と説いている。
「大麦小麦二升五合」の響き
この難解な禅語にまつわる、ある老婆の逸話が好きだ。
彼女はこの経文を「大麦小麦二升五合(おおむぎこむぎにしょうごごう)」と聞き間違え、それを一生懸命に唱えていたという。
学問的な理解は脇に置き、日々の暮らしの音としてそのリズムを刻んでいた老婆の心は、案外、真理に一番近かったのではないだろうか。
「今は昔、昔は今」。
今昔(こんじゃく)という言葉が指し示す時間は、単なる過去ではない。
過去への執着を捨て、どこにも心を留めない「住する所なき心」で今を生きる。
そのとき初めて、私たちは膨大な時間の地層の上に、軽やかに立つことができるのかもしれない。
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