日本語の深層 — 文字と概念の織り成すもの —
1. 「国語」から「日本語」という実体へ
「国語」という言葉を「日本語」に置き換えて考えてみましょう。日本語を訓読みすれば「やまとことば」であり、それは「国語を和語にする」という試みでもあります。
近代のイデオロジーによって形成されたものが「国語」であるとするならば、現代の言語学的な視点で捉え直すのが「日本語」です。そこには漢語、外来語、和語、さらにはカタカナ語に混種語が加わります。日本語とは、多様な出自の言葉が混用される「ハイブリッドな言語」なのです。
このイデオロジー以前の姿を求め、和語を遡れば「倭語(わご)」にまで辿り着きます。しかし、文字を持たなかった時代の倭語を直接記録したものは、残念ながら存在しません。
2. 文字という「器」を得たことば
日本人は、文字を取り入れることで初めて「ことば」を客観的に捉え始めました。「ことば」という音形に対し、「言葉」「言端」「辯」「詞」「辞」といった漢字(字形)をあて、概念を固定していったのです。
漢字という外来の文字をどう受け止めたか。私たちは漢字から音標文字(仮名)を作り出し、日本語の発音を表しました。一方で、漢字が持つ本来の意味を、漢字の発音(音読)と日本語の読み(訓読)の両面で享受することで、文字そのものを日本語の語彙として定着させたのです。
3. 「言語(ゲンゴ)」と「語言(ギョゲン)」のあいだ
ここで「言語」と「語言」の違いを考えてみましょう。日本語では「言語(ゲンゴ)」と定着していますが、中国語では「語言(ユィイェン)」となります。かつて北京語言学院で「日語専家」として活動していた頃からの疑問ですが、この語構成の違いは日中両言語の本質を映しているように思えます。
「言語」を「ゲンゴ」と読むのはおかしい、「ゲンギョ」あるいは「言語道断」のように「ゴンゴ」と読むべきだ、という議論もあります。しかし、私たちはあえて「言語(ゲンゴ)」として受容してきました。
「言」と「語」をそれぞれ訓読すれば、「言う」ことと「語る」ことの違いが見えてきます。さらにそこへ「話す」が加わり、自ら語ること(独白・物語)と、相手を含めて話すこと(対話・交流)という行為の分化が起こりました。文字としての「言語」は、こうした和語の細やかな使い分けを背景に、書き言葉としての固定された概念を作り出していったのです。
4. 「日本」という表記に宿るアイデンティティ
日本語という概念を考える際、避けて通れないのが「ニッポン」か「ニホン」かという呼称の議論です。国号の由来や記録を遡る研究は多々ありますが、結局のところ、私たちはその正解を一つに決められない歴史を歩んできました。
しかし、読みが揺れていても「日本」という表記(字形)だけは揺るぎません。私たちは「日本」と書き、それを状況に応じて「ニッポン」とも「ニホン」とも読みます。この「表記が概念を担保し、音声がその外側を包む」という構造こそ、日本語の特性そのものです。
5. 結び:混種語としての「日本語」のゆくえ
「ことば」は音形であり、「言語」は文字に写された概念であり、「語」は字形そのものです。 かつて漢語(中国語)を取り入れることで概念を構築した日本語は、いまや西洋由来の欧語をも飲み込み、さらなる雑種混合の段階にあります。漢字という「語」を核としながら、電子情報の海で新たな「言(発言・用法)」を編み出し続ける。日本語を捉えるということは、この重層的な文字と音のドラマを読み解くことに他ならないのです。
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