2026/03/31

令和八年三月三十一日 火曜

 

言語学を学び始めた頃、わたしはソシュールの「言語記号説」に対して、心理的なものに近い、強い違和感を抱き続けていた。 「言葉は記号である」という定義が、どうしても腑に落ちなかったのだ。

その違和感の正体は、わたしが「国語」の中に見ていた世界と、近代言語学が提示する「システム」との乖離にあった。

記号説において、言葉(記号)は「シニフィアン(能記:音)」と「シニフィエ(所記:概念)」の恣意的な結びつきとされる。例えば、「かわ(川)」という音と、実際の川の概念との間に必然性はない、という考え方だ。 これは、冷徹なまでに論理的なシステム論である。

しかし、日本語の海に深く沈潜してきたわたしにとって、言葉はそんな無機質な「記号」ではあり得なかった。

例えば、雨の音を表す「しとしと」や「ざあざあ」といったオノマトペ(擬音語・擬態語)。これらは、音そのものが意味を、情景を、そして皮膚感覚を宿しているではないか。そこに恣意性などという冷たい言葉は馴染まない。音と意味が、不可分に溶け合っているのだ。

さらに、漢字という存在がある。 「山」という文字は、単なる符号ではない。それは山の連なりという「形」を模し、その視覚的な情報の中に、悠久の時間や神聖さまでもを内包している。漢字は、記号を超えた「象徴」であり、文字そのものが生命力を持っているように思えたのだ。

そして、助詞(てにをは)の響き。 「わたしが」と「わたしは」の一字の違いがもたらす、文脈の微細な揺らぎ、話し手の心の機微。それはシステムとして分析される以前に、感情の波紋として直接心に響くものである。

西洋で生まれた近代言語学の眼鏡を通して日本語を見たとき、そこからはみ出してしまう「情感」や「身体性」。それこそが日本語の本質ではないか――。 「言語記号は学説による」と自分を納得させるのに長い時間を要したのは、この日本語という言語が持つ、記号化(システム化)への強烈な抵抗力を、わたし自身が感じ取っていたからに他ならない。

0 件のコメント:

コメントを投稿

令和八年六月十五日 月曜日 民俗にあるもの

 民族じゃなくて、民俗だろうに、ミンゾクはどうなったかと検索してみて、でてきた、でてきた、ヒットしたのは柳田国男、折口信夫とあいかわらぬ研究者名の古さには文化人類学という皮衣ができた、のだった―――しかし柳田国男はフォークロアーとエスニシティ―を論じているようだから。 人類学と文...